アガサ・クリスティー自伝(上)-父について、幸せについて、結婚について-
帰省の際に母の本棚から拝借してきた本。彼女は途中からつまらなくなったらしい。
これが案外面白く、いま1番読んでいる本である(私は何冊かの本を並行して読むことで読書が滞らないように努めている。だがその試みが必ずしも成功しているとは言えない)。
まず書き出しが良い。
「きみの兄さんは感じのいい人かい、ペゴッティ?」とわたしは用心深くきいた。
「ああすごく感じがいいよ、兄は!」大きな声でペゴッティがいった。
あなたの友人や知り合いの多くについて、その質問を自分に問いかけてごらんなさい。ペゴッティと同じ答えがどんなに少ないか、きっと驚くにちがいない。
実際に同じ質問をされたら…と私は考えてみた。私の周りにそういう人はいるだろうか、と。
まずこの本をくれた私の母は、感じが良いとは言えないだろう。私とはまあまあ話が合うがよく喧嘩もするし、言動に激しさがある。
私に良くしてくれる祖母は「感じのいい人」と言われそうである。しかし、それよりも「面倒見が良い」とか「優しい」とかそういう言葉に当てはまる人だと思う。
結局私の親類でこの言葉が一番当てはまりそうな人は、私と相性の悪い父なのだった。
これを読んだあなたも誰が「感じのいい人」という言葉に当てはまりそうか考えてみると面白いかもしれない。
私はアガサ・クリスティーの本は「春にして君を離れ」しか読んだことがない非正統派読者なので、文体や内容についてアガサらしい・らしくないなどということは語れない。(↓こちらのブログで紹介されていて読んだ。)
アガサ・クリスティーは比較的裕福な家で育ち、兄と姉がおり、両親も優しかったということが伝わってくる。使用人との思い出もたびたび語られる。
彼女が喜びに直面したときの場面を読んで、その気持ちがとてもよくわかるなあと感じたので引用する。
五度目の誕生日に、わたしは犬を一匹もらった。これはわたしにとってそれまでになく強烈な事件であった。信じられないような喜びで、わたしは一言も口をきくことができなかった。
(中略)
ありがとうさえいえなかった。わたしの美しい犬を見ることさえろくにできなかった。それどころか、犬に背を向けてしまった。
あまりの感激に犬から目を背け、幸せに折り合いをつけたいと感じ、トイレにこもってしまうアガサ・クリスティー。そして現実をかみしめる。
わたしは犬を持ってる……犬を一匹……、わたしの、自分の犬よ……ほんとにわたしの自分の犬よ……ヨークシャーテリアよ……わたしの犬……ほんとにわたしの自分の犬よ……
アガサの父は娘が喜んでくれると思っていたのに「全然関心がないらしいね」とがっかりする。そこへ彼女の母が「あの子はまだほんとにのみこめずにいるんですよ」と言う。
アガサ・クリスティーというと一流のミステリ作家で、『そして誰もいなくなった』や名探偵ポアロのシリーズなど、読んだことのない人でも名前は聞いたことがあると思う。
そんな彼女の自伝ということで、私はてっきり複雑な家庭環境について綴られているのだと思っていた。たとえば、彼女は決まった家がなく、いつもどこかに居候しなければならなかったので人に不快感を与えないよう鋭い洞察力を身に着けた…とか。
しかし、冒頭にも書いたようにいまのところ家族への不満も特になさそうだし、使用人の一人がとびきり変わった人でお話を書くための特別なレッスンを週に1度開いてくれた…などということもなさそうだ。人の行動に対して、家庭環境の影響があるのだろうと思ってしまうのは私の悪い癖だ。
最後にアガサ・クリスティーが愛について書いた部分を引用して終わる。
これは奇妙な考えだが、人が滑稽に見えるときこそ、その人をどんなにあなたが愛しているかわかるときなのだ!
(中略)
わたしはこれから結婚しようとしている若い女にはこんな助言をすることにしている──「ところでね、こんなことをちょっと想像してごらんなさい──彼がひどい鼻風邪をひいて、すっかり鼻声になって、くしゃみはする、涙はぼろぼろといったありさま。あなたは彼のことをどんな風に思う?」と。
結婚には愛慕ではなく尊敬が必要であるとアガサ・クリスティーは言う。
これもまた、自分の人生に当てはめて考えてみると面白そうな課題だと感じた。
終