おおきくなりたくありません

すきなものはたくさんあります。苦手なものはこころのほつれ。

触れたくないもの・こと

もう1年近く前にブログを書いていたんだなーと驚いた。

最近はパソコンを起動することも少なくなり、起動したときはだいたいゲームをやっている。

 

ずーっと長い就活みたいなことをしていて、それは確実に近づくものへの終活でもあるし、人生をかけて「自分の居心地の良い場所をみつけられるか」という課題なんだろうなあと思った。

たぶんあと1年も経てば自分は働いていて、それなりに自分の生活をまかなえているだろう。多少の援助はあるとしても、経済的な自立にかなり近づいているはず。

あとはそのペースを保てれば良いな、と思う。

 

自分に持てるだけの服、そして、本は本棚からあふれてもいい。本だけはいくらあっても困らない。むしろあればあるだけ嬉しいので、今年も元気なときはおしゃれも社交もそっちのけで本を読みたい。

 

読み終えたばかりの本について、すぐに感想を書きたくないときがある。頭の中でまとめて、もう少しかみくだきたい。

世間で話題になっていることについてももちろん同じで、すぐに何かを書くことが正しいことばかりではない。

精神は修理に出せれば一番良い

冬は手がかじかむし、寒いから、あまり長くはパソコンの前にいられない。

ノートパソコンもあんまり好きじゃないから、文章を書くことから遠ざかる。

まあまあのインプット、全然できてないアウトプット。

同人誌読んで元気になったと思ったら次は泣いてるんで疲れる。

自分に疲れる。

 

冬は日照時間のせいなのかつらい。一年中つらいけど。

スターがもらえる文章書けるっていいなと思うけど、そもそもそんな動機で書いてなかった。もちろんもらえたら嬉しいけど。じゃあ到達点はどこにあるのかと言ったら、やっぱり自分で満足できること。自分が思っていることを完璧に美しく描写したいのかな、と思う。

でも最近思うことなんか無い。たくさんあるけど人に言いたいほどの何かはない。ただ普通に生きてる、毎日を送ってることは味気なく美しくなく感じるのは病気だ。アップダウンが激しくても刺激的な毎日を贈りたいとか、何か一発逆転みたいなことを欲しがっているのは最悪だ。ただ積み重ねて、その先に幸福があるんだと思う。努力をおこたろうとするのはやめてくれ。

 

最近物を捨てて、買わないように気をつけている。もう十分だから。何もかも十分だと思うから。だから死ぬほどのお金を与えて私を生かしてほしい。これはモラトリアムなんかじゃなく脳の病気なので、早く金を与えてほしい。その他のことは諦めてもいいと思ってる。いや、人並みでなくてもいい。それなりには欲しい。子どもとかは我慢するから。結婚式とか婚約指輪とか、すごくやりがいのある仕事とか、理解のある両親とか、そういうのはもう頑張って諦めるから他に何か与えてくれよと思う。

私にあげられるものはこの肉体と日々の気遣いとかで、心は私のものなのであげられない。精神は修理に出せれば一番良い。肉体はだんだん老いていくんでもう価値がないものに近いと思う。だとしたら何か差し出せるものはあるのか。ないよな。悲しい。

最近検診にひっかかったんだけどちょっと嬉しくて、でも軽度の異常なんで死ぬとかはなさそう。あー検診のときちょっと血が出たのなんか生きてるって感じだったな。再検査もちゃんと受けるし、自分が何目指してるのかわからん。生きたい人と魂を交換できたらいいと思う。マッチングアプリかなんかで。でもどうせだったらかわいい女の子と交換したいなあとかいってまた日々が過ぎていって死ねない気もするな。

男になりたいと思う。本当は女で快適に生きられたら一番良いが。いや、男になったら別の悩みがあるんだろうな。誰になっても結局私の精神のままじゃだめなんだろうな。自分をほめることがない。自己肯定感が欲しいな。人の言うこと気にしすぎないで、気持ちの切り替えも上手くなりたい。30歳とか過ぎたらもっと楽になるのか?でもあんなに指標にしてた雨宮まみはもういない。楽しそうな年上の人はいない。ちゃんと探さないと。あんなに文章上手くてもいなくなっちゃうなんてどうしたらいいんだろ。私は才能が無いから長生きできる?

検診ひっかかったよって言ってちやほやされてえ。誰にも言ってない。人に言えることが良いことも悪いことも何もない。あっても言っていい権利があると思えない。誰かに何か背負わせることじゃん。

たぶん結婚とかできてもこれは楽にならない。少し楽になったとしても、新たな悩みが出てくると思う。峯田も40になっても満たされないって言ってた。私もそっちかも。逆に早く歳をとって、誰からも女として意識されなくなったらいいのかもしれない。自分が女なんで意識されるってことが救いになることもあるけど、だいたいは気持ち悪いものだ。だって付き合う人にしか意味ない。それ以外は意味ない、お互いにとって。自意識過剰だ。そんな人誰もいない。誰もお前を見てはいない。こんなこと1500字も書くな。

はあ、ちょっとすっきりしたな。明日からも頑張って、年末は、年末は…頑張る。

デレステのアニメ良かった。きらりん出てくるたび泣いてた。きらりんみたいに明るく生きたい。きらりんは頑張っててすごい。きらりんがとなりにいてくれたらな、お友達だったらなって思う。私もそういう風に誰かに思われたい。女の人に強く思われたい。レズビアンとかではない。ただ、セックスしない相手に強く思われるってことは、すごいことだと思うから。強固な友情がほしいね。私は一方通行多いから。もしくは相手に子どもができて興味がそっちにいったりとか。人生のステージがすぐ変わっちゃうんだ女の子は。私に魅力がないだけか?わからん。

自分だけの部屋、稼ぎ、そして好きな人がいて、奔放なセックス、好きなものに囲まれ、自由に。と同時に私は安定と安寧を望んでいる。苦しい。夢や希望に引き裂かれて死ねたら美しいかもしれない。

両親も兄弟も仲が良くて、少し甘やかしすぎたなどと言われながら、子供をもうけることはさも当然のことだというように人生に組み込まれていて、少しの不安がありながらもパートナーと支え合い、みんなの温かな眼差しのなかで生きていきたかった。

ソウとウツがぐっちゃり混ざったような今の気分で、私がずっともやもやと考えていたことを言葉にしてみようと思う。

 

私には仲の良い女友達がいた。今年もお盆にあったばかりだ。

彼女とは10年以上の付き合いで、私は彼女のことが大好きで、いろんなことを彼女から吸収した。服とか音楽とか考え方とか、いろいろなもの。彼女は美しく、話す姿も写真に映る姿も美しかった。二人きりでカラオケや旅行や買い物に行ったし、複数人でも遊んだし、いろいろなことを喋った。今では本当に遠い昔のようだが一緒に同じ浴槽に浸かったこともある。

彼女と進路が別々になって、物理的にも心理的にも距離は遠ざかって、彼女は変わっていくようにみえた。もともと秘密主義だったのが、もっとそうなった。恋人のことも教えてくれなかったし、結婚も直前まで教えてもらえなかった。

ただ、結婚式には招かれた。私は精いっぱい準備をして臨んだ。式の間はかなりの時間泣いていた。感動して、とかじゃなくて、自分でもよくわからなかった。ビンゴゲームで商品が当たっても全然嬉しくなかった。ただ、当たったときに彼女に名前を呼ばれたことだけは嬉しかった。

彼女の旦那さんはとても穏やかで誠実そうで優しそうで、親切な人だった。私たちの内輪の二次会にも付き合ってくれた。

数年後、彼女に子供が産まれた。LINEのアイコンで知った。その時はほとんどLINEでやりとりをするだけになっていた。でも、彼女の出産を機に会おうということになった。子供を抱かせてもらって、旦那さんに挨拶して、自分の近況を相談して、ケーキを食べた。

 

私は正直彼女がうらやましかったのだと思う。聡明で美しくて、卒業したら結婚して出産するという筋書きのある物語のような、紆余曲折のない美しい人生を歩んでいる彼女がまぶしかった。

もちろん私にそう見えただけで、彼女にだって痛みや苦しみがある。けれどどうして自分はまっすぐに生きていけないのかと、彼女を見るたびに胸が痛いのだ。どうして病気があるんだろう、どうして結婚までスムーズにいかないのだろう、もっともっと大切にされて指輪や洋服を買ってもらって、結婚式を挙げるのはあまり気が向かないからこじんまりした式にしよう、その代わりドレスや和装の写真をたくさん撮ろう。子供はなんとかなるよ。二人で大事に育てよう。そんな風に言われてみたい。

両親も兄弟も仲が良くて、少し甘やかしすぎたなどと言われながら、子供をもうけることはさも当然のことだというように人生に組み込まれていて、少しの不安がありながらもパートナーと支え合い、みんなの温かな眼差しのなかで生きていきたかった。

でも実際は病気や両親の離婚や親の無理解と不和、子供なんて夢のまた夢、お金もない。学もない。私には人に誇れることがない。タオルがちょっときれいにたためてカラオケも人より少しうまいかもしれないが、それが人生において一体何の役に立つだろう。ほんの一瞬、その時だけしか役立たない。

まっすぐに生きて子供が産める人生のほうがきっと良かったと思う。たぶん、きっと。

 

彼女は本当に本当に大好きな人だったのに、私の肥大した自意識で遠ざかってしまった。彼女の住んでいる場所や、旦那さんの優しさや、いろいろなことが私の心を揺さぶる。あんなに好きだったのに、彼女を遠くの人としてしか見られない。そしてそんな自分を一番悲しく虚しいと思う。

 

彼女が好きだった歌を聞くのがつらいし、最近は何を聞いてるの?とたずねて、昔とは全くちがうアーティストを聞いていることが悲しかった。でも考えてみればそれは当たり前のことだ。だって彼女の環境は本当にめまぐるしく変わったんだから。

 

人と比べて、理想とされる生き方と比べて、そして悲しんだり苦しくなったりしている自分は本当にバカだと思う。だから病気になるのかもしれないし、だから病気なのかもしれない。

彼女はもうまぶしくて、でも5年とか10年経ったら、もっと自然に付き合えるようになっているかもしれないとも思う。私の考えが変わっているかもしれない。少し和らいで、穏やかになっているかもしれない。それだけが希望だし、でもそこにたどり着くまであまりにも長すぎるとも思う。

こんなことを繰り返して一体何が得られるのか。そもそも何かを得られると思っているの?と自分の心が問いかけてくる。

10年後、何にも変わっていない自分がそこにいたら。一体私はどうなってしまうんだろう。どうなりたいんだろう。ただ、彼女と全く同じになりたいわけではない。でも、自分の人生とある程度状況が似ていないと女友達と付き合い続けられない自分の狭量さが、本当に悲しい。

「天井」の話

ぐだぐた考える。

「天井」の話なんです。

「憂鬱だった いつも目覚めると同じ天井があって

現実だって思い知らされる ここには出口がない」逆光/坂本真綾

という歌詞を見まして。で、私がパジャマにしてるTシャツには

「見知らぬ、天井」

と書いてある。

2019年リリースの「逆光」はFGOというゲームでありアニメの主題歌みたいなんですが、Wikipedia見てもちょっと話が複雑でそれ以上はよくわかんなかったです。すみません。

で、1995年のエヴァ。シンジくんが目覚めると知らないところにいて、目の前には知らない天井。どうも自分の部屋じゃない。それは日常の続きじゃない。

 

言ってることがかなり真逆に近いのかな、と。

いや、FGOは掴みたくても掴めないものをどうにかしようとしているようにその後の歌詞から読み取れるんですが、シンジくんは見知った天井のほうがいいんですよね。ずっと翻弄されているから。

明日どうなるかわからない、だから知らない天井はこわい。

同じ天井から抜け出したい、だって出口がないから。

天井というのはまあ景色とも置き換えられると思うんですが、突破口が欲しいんです。でもシンジくんは変わっていくことに恐怖を覚えている。

でもエヴァやらlainやらAKIRAやら、僕は昔のアニメを見てるわけでなんか全然変われてなくて、シンジくんの頃から進んでないんです。FGOが若者向けに作られた歌詞だっていうのもあるかもしれないけど、少なくとも僕は変われていないし、見知らぬ天井だけどその先に出口があるのかわからなくて、知っている天井を見て出口がないことを思い知る。

「天井」というキーワードだけでずいぶんこじつけて書いたけれども、私のメンタリティはやっぱりシンジくんのままで、変わってほしいとかあんまり思っていない。同じ天井でも別にいい。

ただ「希望は戦争」というように、ある日突然自分にも美しい力が目覚めて、誰かが私を引っ張り上げるのを待っている。ぞういう側面もあるんです。ただ、それはちっぽけな変化なんかじゃなくて、世界がまるっきり変わるような大きな大きな変化です。

それはたぶん自分が消えることと同じくらいの大きさのことです。

「運命の人なんかいない」ということ

理想の人と出会うということについて

 

私は本、映画、音楽、アニメ、エロゲなどなど好きなものを追求するタイプのオタクだ。

立川にガルパンの映画あれば行って極爆上映を観て、三鷹に太宰の墓があると知れば玉川上水に沿って歩き、椎名林檎のライブがあれば神戸や大阪に遠征し、好きなアニメの二期の監督が違えど文句を言いつつ最後まで観る。そういうオタクだ。

で、それとちょっと通ずることで最近気づいたことがある。「運命の人なんかいない」ということだ。いや、2%くらいはいるのかもしれない。この人が運命の人!って思って幸せに暮らしている人が世の中に少しはいるはず。だが、自分にはきっとそんな出会いは無いと思っている。

私にもいつか白馬の王子様とは言わないまでも、多少の欠点は見逃してくれるような私にはもったいないわというような人が現れる…とはあまり思っていなかったが、友人に関しては違った。気の合う友人、師のような友人、メンター、人生を変えてくれる人、引っ張り上げてくれるような人が現れると思っていた。いや、もちろん何人かはすごく好きな人とも出会えた。でもそうじゃなくて、私の欠けている部分にぴったり合うような、相手の全部を好きになって憧れることのできる素敵な女友達が現れないかななんて考えていたのだ。でもそれはちょっと歪んだ考え方だったと思う。なぜなら人間関係は育てていくものだからだ。

アニメや本や映画だって全部を好きになるわけじゃない。絵が綺麗で題材がいいとか、ストーリーと俳優がいいとか、この曲のこの歌詞がいいとか、全部を全部100%好きなわけじゃない。なんだよこれ!って言いたくなるような作品にだってたくさん出会ってきた。その中で自分のとっておきのお気に入りが増えていくのが楽しいのだ。何にも代えがたい幸せなのだ。

人間関係だって本当は同じなのだと思う。全部を好きになるわけじゃなくて、この人の喋り方が好きとか、この部分の趣味は合うなあとか。で、そういう人に出会うためには映画などと同じくある程度の数を重ねなければならないのではないか。より多くの人に出会う必要があるのではないか。

自分の欠けたところにぴったり合う人なんてなかなかいない。多くの人間関係はこつこつ育てていくもので、その中でこの人と一緒にやっていけそうだという人と友達や恋人になるのだろう。

私は全く浅はかだった。他のことなら数をある程度こなし、自分の審美眼を磨こうと思える。普段は気にならないものでも、その時の自分の精神状態と作品がリンクして好きになるということだってままあることだ。

なのに、人間に関してはなぜか運命というものを信じ切って、信頼しきっていた。

ちょっと気づくのが遅かったかもしれないけど、人と合わないなんて当たり前のことだ。だから自分を責める必要はない。長澤まさみからDMが来てヴィレヴァンの前で会うとか、そういう幻想は捨てよう…

と言いつつ、メールボックスとかこまめに確認してしまうのであった。早く解脱したい!