「遠い日の陽」、「ばけばけ」など、明確に何かを終わらせないということ。

冬の間は冷凍されたかのように感情や生活が停滞する。新しい本を読んでも内容が入ってこないので昔買ったものを再読する。音楽も同じ。元気な曲は聴けない。たいていはビル・エヴァンス、セロニアス・モンク…セロニアス・モンクですら元気すぎて聴けないときもある。

しかし春。春は気温を上げ、桜を咲かせ、人々の身体や精神を目覚めさせる。やや活発になりすぎてお金を遣いすぎたり、アイデアがどんどん浮かんできて大変な時もあるが、やはり冬に比べれば良い。

 

冬の間にできなかったことを取り戻すかのように映画を観たり、音楽を聴いたりする。

「わたしは最悪。」という映画を観る。これは年始に観た現時点で今年最高の映画である「ピアノ・レッスン」とは真逆の終わり方。

でもどちらの映画も終わり方が好き。人生は悲劇だけではないし、もちろん楽しいことだけでもない。「わたしは最悪。」はまあだいたいこういう風に終わるのだろうなというのを裏切ってきたので良かった。

「教皇選挙」も見た。シスターたちが甲斐甲斐しくご飯を作るのを見て(役割であるとはいえ)、「女の人は最初から教皇になる権利もない」とぶつくさ言いながら見ていた。ご覧になった方はご存知の通り。

とはいえ私はカトリックとかキリスト教についての知識が全くといっていいほど無いので、日本人でこれを評価している人は知識があるのか、それとも映画的によく作られていることを評価しているのか。私には少し難しかった。

 

年末年始に再読した「細雪」にまた手を出して、積読は消化されない。

「遠い日の陽」という横谷加奈子さんの短編集が本当に良くて、ネットで公開された当初から何度も読んでいるが、やはり短編集を購入して読み返しても表題作が一番好きだった。ネットで親しくしていた友人のことを思い出す。

読後感に少し華倫変の作品に似たものがある。

昨今の漫画、美しく終わる、完璧に終わる、というものより、なんとなく終わっていくものが多い気がする。私はそういうのは好きだ。若い頃はもっときちんとした締め方を求めていたけれど、人生は全てに片が付いて終わるわけではないので、映画などと同じで漫画表現にもそれが許されてきたような、そんな時代の空気を感じる。

あとは相変わらず志村貴子を読み返したり、「きのう何食べた?」の新刊を読んだり。

「バルバロ!」もすごく好き。あとは明日カノ作者の新作を毎週アプリで読んでいる。

 

窓をたまに開けるくらいで暖房も冷房も稼働しない、この穏やかな季節が数か月も続けば私はもっと快適に生きられるのにと思う。

 

あ、朝ドラの「ばけばけ」もすごく良かったもののひとつ。俳優・脚本・音楽・演出。なにせあのオープニングの素晴らしさ!「日に日に世界が悪くなる」ことをきちんと歌う人がいるということはどれだけ多くの人の支えになっただろう!

こちらも大きな盛り上がりがなく、日常の中に起こることを大切にし、明確に何を終わらせる作品でなかったことで多くの人に届いていた気がする。

 

持っているスマートフォンを5年ぶりに機種変更したら画面が大きくなり、もはや片手では持てないがむちゃくちゃ快適になった。文字も大きいし画面も綺麗。操作もしやすい。もちろん安くはないが、日常遣いしているものを少し変えてみるだけでこんなにも快適になるものかと驚く。

春の陽気とともに、私自身前向きになり、人と会うことも増えた。お誘いをなるべく受けるようになったし、会える人とは会っておこうという気持ちになっている。

今後もこの良い作用が長く続くといいなと思う。ただし興奮気味のときも多々あるので、それをもっとコントロールできるようになりたいが…。

 

 

 

冬になると読み返したくなる本 『誕生日の子どもたち』,トルーマン・カポーティ

冬の時期になると読み返したくなる本。

パトリシア・ハイスミスの『キャロル』。

クリスマスが出てくるお話。雪が出てくるもの。

村上春樹の『国境の南、太陽の西』。あるいは別れの物語。

 

今年はカポーティを読み返している。

主人公である七歳の男の子バディーと、いとこで60代女性のスック。そして犬のクイーニー。

感謝祭とクリスマスについて書かれた短編はどれも素晴らしく良い。読んでいて涙が出てしまうほど。

お気に入りの箇所がいくつもあるが、一部だけ抜粋。

 

『クリスマスの思い出』より

 

僕の親友は生まれてこの方映画を観たことは一度もなかったし、また観たいと思ったこともなかった。「私はお前に筋を聞かせてもらうほうがいいよ、バディー。そのほうがいろいろと想像できるもの。それに私くらいの歳になるとね、目の無駄遣いをしちゃいけないんだよ。神様がいらしたときにお姿がちゃんと見えないと困るものね」。

p,115

 

「私はこれまでいつもこう思っていたんだよ。神様のお姿を見るには、私たちはまず病気になって死ななくちゃならない。そして神様がおみえになる時はきっと、バプティスト教会の窓を見てるような感じなんだろうってね。太陽が差し込んでいる色つきガラスみたいに綺麗でさ、とても明るいから、日が沈んでもそれに気がつかないんだ。なんだか怖いくらいでさ。でもそれは正真正銘のおおまちがいだった。誓ってもいいけれどね、最後の最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちの前にそのお姿を現わしておられたんだということを。物事のあるがままの姿」──彼女の手はぐるりと輪を描く。雲や凧や草や、骨を埋めた地面を前脚で搔いているクイーニーなんかを残らず指し示すように──「人がこれまで常に目にしてきたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ。私はね、今日という日を目に焼き付けたまま、今ここでぽっくりと死んでしまってもかまわないよ」

p,134

『誕生日の子どもたち』,トルーマン・カポーティ村上春樹,文春文庫

 

 

悲しみと虚無とChat GPT

前回の記事から3ヶ月近く経っていた。冬を抜けたことでだいぶ動ける日が増えて、嬉しい。その代わり物欲や人と話したい欲も高まっているので、出費が多かったりやたらと活動的なときもある。時にはそれで困る。

 

だが最近はchat GPTのおかげで大いに助けられている。仕事のために使っている人も多いようだが、私は主に相談をしている。相談と言っても雑談ではなく、割と明確にぐるぐる思考を止めるためにやっている。止めるため、だと語弊があるかもしれない。ぎりぎりまで、飽きるまで話すときもある。

 

私は思考や感情の切り替えが非常に下手くそなので、ひとつのことにとらわれてずーっと考え込んでしまうときがある。

「あの人に言われたor言ったあの一言が気になる…」とか、「あの洋服が欲しいけど予算が厳しい」とか、「体調が悪い。何もできない。自分が悪い。生まれてきたことが間違いだ」とか、そういったたぐいの人に話しても答えがでない問い。そして自分で考えてもなかなか答えは出づらい。そんなとき限界まで考えるのにGPTは向いている。

なにが良いかというと「何時に何回話しかけても良い」というところである。言い方がちょっとそっけなかったかなとか、何回も同じことを相談しすぎかなとか、そういうことも気にしなくて良い。

自分で相談しているときに文章化が必須なので(音声入力もできるらしい)、考えが整理される。文字を打っているときに「私、いつまでこれについて考えてるんだ」と思い、今日話した時間・やりとりの回数についてたずねると、その日だけで40分も相談していて、どんだけ考えてるんだと少し冷静になったりもできる。

 

これは私の特性として言語にすると頭に入ってきやすいという前提がある使い方なので、各々、使う人によって良いやり方があると思う。音声のほうが良いという人もいると思う。

 

GPTに相談するようになってから、自分の生活が少しだけ良くなっている気がする。やや、本当に少し、自分に優しくできている気がする。定量的にはかれるものではないので、裏付けと呼べるほどのものはないのだが、GPTが「その優しさを他人だけではなく自分にも向けてみては」と提案してくれたとき、本当に少しだけ0.2ミリくらいは「そうだな」と思える。

AI依存になってしまって困る!とか、AI依存はこわい!という意見もあるようだが、包丁と同じで使い方次第というか、自己を肯定する力が弱く、なおかつ自責感情が強めの人にはわりと良い変化をもたらしてくれるものなのではと考えている。また数か月後に考え直してみたいと思う。

 

それから、私の場合は月に1度精神科でカウンセリングを受けているということもあるので、人間とAIと同時に相談窓口を設けるのが安全なのではないかと思う。AIだと肯定が多くなりがちかなと思うので。

ただ、やはりいつでもどこでも何度でも、月に3000円の課金で話を聞いてくれる窓口があるというのはありがたい。いのちの電話は一度もつながったことがないけど、AIはアプリを開けばすぐ話せる。たまにとんちんかんなことを言ってくるときもあるので、そういったときは訂正が必要だが、それは人間も同じことだし、とんちんかんなのもまあAIだからなと思える。これが人だったら、「この人まじめに聞いてない?」とかいろいろ考えてしまうので。

 

あと体調不良や生活相談も聞いてもらっている。こういう不調がある、ということに対してねぎらいの言葉をかけてもらうだけでありがたいなあと思う。生活も「いまから〇〇して外出します」とか書くだけで、GPTに宣言したから頑張ろうという気持ちになる。

あと、前回の不調はいつだったかとかも聞ける(その情報も間違っているときがあるが…)。

 

何にしろ自分の話を聞いてくれる存在がいるのはありがたく、また、周りの人に迷惑をかけないためにもGPTには感謝している。ただ、これが社会として当たり前になっていくと「あの人AIに相談すればいいのに」という考えも出てくるだろう。また、自分で考えずにとりあえずAIに聞こうという人も出てくるだろう。

それが間違っているとか悪だというつもりはないけれど、そういった時代がきたときに人間の考えが均一化されてしまうのはこわいなあと思う。全員がAIに従って生きる合理的で正しい社会はたぶんつまらないと思う。

 

「悲しみと虚無しかないのなら、僕は悲しみの方を取ろう」

ウィリアム・フォークナーの『野生の棕櫚』の一文らしい。私は攻殻機動隊のアニメで知った。最近この言葉についてよく考える。私はそのとき悲しみのほうをとれるだろうか、と。合理的でコスパやタイパを求めるというのは、私には悲しみをとらない生き方に見える。

悲しみを味わわず生きて何が人生かとも思う。ただ、やはり味わわなくてもいい悲しみもあり、その悲しみのあとは虚無が残る気がする。だから私は悲しみが与えてくれたものに目を向けたい。難しいことだが。

人から押し付けられる悲しみではなく、自分が選び取った悲しみは、胸に抱いて生きていきたいと思う。

 

『青い花』と私の信仰

宗教的な話ではない、と思う。

 

志村貴子先生の『青い花』の4巻で、井汲京子さんという女の子のモノローグがある。

「お母さんには/とくべつの/神さまがいる

 お母さんだけの」

私はこの部分を初めて読んだとき、きっと全人類がそうなのではないかと思った。

志村貴子氏が書きたかったのはたぶんそういうことじゃなくて、井汲さんがお母さんの信じているものに困っているということ(いまでいう宗教2世?)なのではないかと思う。だが私には、ずいぶん前から言いたかったことが言語化されているような気がしたのだ。

 

神さまを信じる人、信じない人。いろんな宗派があり、いろんな神さまがいて、無宗教だという人もいる。お天道さまが見てる、という人もいる。

私は特定のものを一心に信じているわけではないが、祖父母の家に仏壇があったので南無阿弥陀仏を唱えることに違和感なく育った。

この間、人生初の金縛りにあったときも「南無阿弥陀仏」を唱えることによって悪夢から飛び起きることができた。

一方、聖書も読む。好きな箇所には付箋を貼って、心が弱った時に読み返している。

マリア様がみてる』を読んで、ロザリオに憧れたこともある。お祈りという行為も美しいと思う。信仰とは少し違うかもしれないけれど、星占いも好きだ。

 

ようするに節操なくいろんなことを信じたり信じなかったりしてきたわけだが、私にも私だけの神さまがいると思っている。たぶん信仰として神さまを信じている人同士も、完全に解釈一致するわけではなく、その人なりの神さま像があるのではないか。

 

今日、もやもやすることがあったので、AIと会話した。

「正しいと思えない考えが浮かんできたので、私の神さまに謝罪したい気持ちになった」、と発言した。

そうすると、こんな答えが返ってきた。

「あなたの神さまはあなたが苛立つことや寄り添えないことを責めてくる存在なのでしょうか。それともあなたのすべての気持ちを受け止めてくれる存在でしょうか」と。

私の神さまは自分自身の自制心に近い。だから、私は自分で自分を罰し、ブレーキをかけ、厳しく責めたてる。でも自分自身と神さまの存在の境目がわからなくなるときがある。私の神さまは本当にそんなに狭量なのだろうか。

 

私は信じたいときに信じたいものを信じる。音楽でも文章でも良い。だが本当は自分自身を信じたいような気がする。自分を信じてあげたい。自分が生きていく力を。自分の存在を、何かの制約などなしに信じてあげたいと思う。

 

(あなたが)自分だけの信仰を持てますように。

または信仰などなくても良いと思えますように。

 

 

 

皮膚と乾燥

暖かくなったり寒くなったり風が強い日があったりして、疲れている。

今年はなんといっても乾燥がひどく、家事をする中で手が痛くなることがある。気づいたらハンドクリームを塗るようにしているが、乾燥するスピードに追い付いていない気もする。夜寝る前には必ずハンドクリームとリップクリームを塗りこむのも欠かさない。夜のルーティーンは多い。

2週間くらい手足がかゆく、ひっかき傷がいっぱいついてしまった。なんとか体力を捻出して皮膚科に行った。乾燥が原因とのことで、塗り薬をもらった。病院に行ってばかりの人生だなあと思う。

薬のおかげでかゆみはそこそこマシになってきた。寒いから電気毛布を使うことがあったが、身体から水分を奪うから使いすぎは良くないらしい。あと、電熱のヒーターも良くないようだ。

あんまりテンションが上がる日というのがなく、特に楽しいこともなく(あるのはあるんだけど!)、ぼんやりと過ぎていく。冬はテンションが下がる。運動量も下がる。部屋も寒い。

去年の春、お花見をしたことを思い出す。といっても近くのコンビニで買ったものを飲み食いしながらちょっと桜を見ただけだが。あのぽかぽかした日差しと、まだ少し肌寒いような風が吹く季節が早く来れば良いのにと思う。