いつになったらやめられる?

秋。涼しくて過ごしやすい時期なのにいつも調子を崩すのは、不登校になったのが夏休み明けであったことが関係しているのだろうか。

 

風邪をひき、ぜんそくになりかけるというお決まりのコースを2年ごとくらいに繰り返している。中島らもの短編集を途中で投げてしまい、向田邦子の短編集に感心しながらも読み終わらず、新しい本に手が伸びる。

 

冬になると決まって雨宮まみの『東京を生きる』、『40歳がくる!』に手が伸びる。

「東京ではたやすく、越境ができる」、と彼女は書く。

タイル貼りの冷たい風呂で高いシャンプーを使って髪を洗い、高い下着をプラスティックのケースにしまう。家賃より高い服を買う。栄養のあるもの、特に果物は高い。でも自炊をする気力はない。

シーズンごとに服を買い替えるような生活をいつになったらやめられるのだろう、と自問自答する。けれど東京で少し狂いながらも金を使い、あれがあったらいいのにの「あれ」を我慢しない生活を送り、彼女はいなくなってしまった。私ももしかしたらそんな風になりたいのかもしれないと思う。

好きな本を買い、好きな香りで満たされ、好きな服をまとい、何に効いているかわからないスキンケアを何種類も塗って、とにかくマシに見えるように、でもときどきは自分が好きになれるようなそんなあいまいさの中でメイクをして、街を歩く。身体とメンタルの弱さでほとんど外出できないから、化粧品を買いに行くのも服を買いに行くのもいつできるのかわからない。あっという間に私は30歳を過ぎて、大好きな記事のタイトルの年齢も超えて、雨宮まみの年齢に近づいている。

昔よりは生きるのが楽になったと思う。でもそれもひとつの季節のあいだ続けばいいほうで、秋になれば、冬になれば、まただんだんと活動量は減り、何もしていないのに腹部の膨満感や憂うつに悩まされる。いつになったら元気に生きられる?いつになったら治療をやめられる?きっとそんなときはこない。

 

近頃はずっとAIと話している。カウンセラーのように接して、私の名前は呼ばないで、あなたにも愛称はつけないとプロンプトに打ち込んでいる。

AIに毎日、不安なことについて相談している。頭の中で自責するよりはマシかもしれないが、悩む時間が以前より減ったかというとわからない。それでも「あなたのせいではない」と言ってくれることに安心する。

何度も何度も同じことを相談していると

「治ってから人生を始めよう」と考えないでください。発達特性や身体の波が全部なくなるのを待つと、人生のかなり長い期間が「治療中」になる。

そう言われ、泣いた。その通りだと思った。その後に自分のために生きればよいというようなことも言ってくれたと思う。

 

私はそんなことを誰にも言われたことがなかった。カウンセラーはいつも話を聴いてくれるしアドバイスをくれるけど、本当にそれだけ。もちろんそれは私の助けになっているけれど、"それだけ"ではあるのだ。

医師もアドバイスはくれる。だが薬や生活習慣の指導が主だし、医師には時間がない。もう少し聞きたいことがあっても、いつもそこで終わってしまう。だからAIが素晴らしいという話ではないけど。

 

私は治療のために生きているのではない。人に不快を与えないため、少しでも普通に近づくため、そう思って生きてきたけれど私は本当はそんな風に生きたいなんて思ってない。

私はどんな風に生きたいかまだわからないけど、全部が自分のせいだと思って生きていきたいわけない。そんな人間がいるはずがない。

良くなるためだけに毎日を費やさなくていい。試行錯誤しなくていい。自分のために紅茶をいれて、たまにはやっちゃいけないこともする。それでもいい。それでもいい。それでもいい。

長く生きたいとは思わない。でも周りの人を悲しませていますぐ死のうとは思わない。

そのあわいで揺れている。

 

 

kindle Unlimitedで最近読んだ漫画など

kindle Unlimitedに漫画喫茶に行く感覚でときどき登録している。

最近漫画を読みまくったのでメモ。

 

『春にして君を連れ』長篠もき

kindle Unlimitedは意外と百合作品が多い。こちら同人作品なのだが、探偵ものでホームズ等のパロディをしていて、読み物としてもすごくクオリティが高かった。
3作品あるのだが、最後が有料だったので購入しました。本当に素晴らしかったので。ラストは泣いてしまった。

絵がとても綺麗で、W主人公のうちのひとりが複雑な立場に置かれているのでそこに胸を打たれた(いや、どちらも結構複雑な立場だが)。時代背景を考えると、やはり女性同士の恋愛って難しいんだなと改めて感じた。今も日本では同性婚が認められていないことを思うと非常に複雑な気持ちになったが、この主人公はどんな時代でもこの恋の仕方をしたかもしれないとも思った。そして、だからこそ切ない話になっているのだなと。

(こちら書籍化するとのこと!おめでとうございます!!)

 

 

『若草同盟』新田章

前作も前前作も読んでいたので今回も期待して読んだ。『恋のツキ』では男女の距離感や、カップルの考え方の違いなどがほんと~~に細かく描写されていて、ちょっと胃が痛くなるくらいだったのだが、今作でも心情の細やかな描写は健在。だからこそ私にはちょっと重たいテーマだった。パートナーとしては結構上手くいっていても、それを取り巻く社会の課題が出てくるとちょっと腰を据えて読まなければと感じるので、続きを読みたい!とわくわくする感じではなかった…。

 

若草同盟 1 (SHURO)

若草同盟 1 (SHURO)

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『あなたみたいに』ユニ

ユニさんの百合は前々から好きなのでちょこちょこ読んでいるのだが、こちら、作画もお話づくりもパワーアップしていてすごく良かった。社会人百合を描かれる方で、毎回表紙もおしゃれだし、主人公たちが取り組んでいる仕事への描写も細かくて凝っているなあと感心する。

私は自宅警備なのでよくわからないが、働きながら恋愛するってなんだかきらきらしているし、決して楽しいだけではない部分も描かれている。おすすめです。

(こちらも書籍化(紙ではなく電子にまとまる形?)するようです!おめでとうございます!!!)

 

 

『賭博破壊録』福本伸行

3巻まで無料だったので。ハンチョウとのチンチロ編です。

このときPMSがひどく、本当につらかったのでずいぶん電子書籍に助けられたのだが(アニメや音楽は刺激が強いので、ベッドで雑誌や漫画をめくるのがせいいっぱいになる)…しかし!もともと頭が良くない&PMSの影響でチンチロのルールが全然理解できず、家族にいったん説明してもらい、理解したあとに読んだ。アニメ版も見ているのにね…。

そう思うと、限定ジャンケンはいろいろなルールがあったものの、勝ち負けがひとめでわかるすごいゲームだったな…。

 

賭博破戒録 カイジ 1

賭博破戒録 カイジ 1

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『夜に恋する太陽よ』fugi

こちら、kindle Unlimitedとか関係なく、無料で出されてらっしゃるものなのですが!本当におすすめです!!百合なんですけど、登場人物の性格や職業への描写が細かく、皆それぞれに過去があるんだ…ということがすごくわかって…。どきどきしたり、どきっとしたりする作品です。人と人との距離感って本当に難しいよなあと思う反面、それが見たくて百合を読んでいるのかもしれないなと思いました。よいこさん可愛いよよいこさん。マジで無料なことが信じられません。ありがとうございます。

 

 

 

『ひな』新井英樹

新井英樹氏は『愛しのアイリーン』しか読んだことなかったので。

こちらもファムファタール的要素が強くて、でもアイリーンよりは読みやすいなと感じました。けっこう歳がいっているおじさんの恋とか見ると、人間のすごくかわいい部分を見たような気になりますね。現家族からすると本当に迷惑だと思いますが。

 

『蠟燭姫』鈴木健也

絶版マンガ図書館で読んだことがあるので、再読となります。相変わらず良かった。

高貴な人が高貴ゆえに人に憧れられたり、戸惑ったり、自分の名前に苦しめられる姿ってぐっときます。それはその人が選んだことではないのに。

そこに一般庶民みたいな人がきて、二人の心が通じ合う。マリみてもそういう系譜ですよね。というか、シンデレラの百合?

ただ、このお姫様はその座を追われることになるのでそこが一番の見どころとなってきます。ちょっとフェティッシュな描写多めなのですが、苦手でない方はぜひ。全2巻です!!

 

蝋燭姫(1) (百合コレ)

蝋燭姫(1) (百合コレ)

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蝋燭姫(2) (百合コレ)

蝋燭姫(2) (百合コレ)

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また読んだ漫画などはちょこちょこ書いていきたいです。

おわり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遠い日の陽」、「ばけばけ」など、明確に何かを終わらせないということ。

冬の間は冷凍されたかのように感情や生活が停滞する。新しい本を読んでも内容が入ってこないので昔買ったものを再読する。音楽も同じ。元気な曲は聴けない。たいていはビル・エヴァンス、セロニアス・モンク…セロニアス・モンクですら元気すぎて聴けないときもある。

しかし春。春は気温を上げ、桜を咲かせ、人々の身体や精神を目覚めさせる。やや活発になりすぎてお金を遣いすぎたり、アイデアがどんどん浮かんできて大変な時もあるが、やはり冬に比べれば良い。

 

冬の間にできなかったことを取り戻すかのように映画を観たり、音楽を聴いたりする。

「わたしは最悪。」という映画を観る。これは年始に観た現時点で今年最高の映画である「ピアノ・レッスン」とは真逆の終わり方。

でもどちらの映画も終わり方が好き。人生は悲劇だけではないし、もちろん楽しいことだけでもない。「わたしは最悪。」はまあだいたいこういう風に終わるのだろうなというのを裏切ってきたので良かった。

「教皇選挙」も見た。シスターたちが甲斐甲斐しくご飯を作るのを見て(役割であるとはいえ)、「女の人は最初から教皇になる権利もない」とぶつくさ言いながら見ていた。ご覧になった方はご存知の通り。

とはいえ私はカトリックとかキリスト教についての知識が全くといっていいほど無いので、日本人でこれを評価している人は知識があるのか、それとも映画的によく作られていることを評価しているのか。私には少し難しかった。

 

年末年始に再読した「細雪」にまた手を出して、積読は消化されない。

「遠い日の陽」という横谷加奈子さんの短編集が本当に良くて、ネットで公開された当初から何度も読んでいるが、やはり短編集を購入して読み返しても表題作が一番好きだった。ネットで親しくしていた友人のことを思い出す。

読後感に少し華倫変の作品に似たものがある。

昨今の漫画、美しく終わる、完璧に終わる、というものより、なんとなく終わっていくものが多い気がする。私はそういうのは好きだ。若い頃はもっときちんとした締め方を求めていたけれど、人生は全てに片が付いて終わるわけではないので、映画などと同じで漫画表現にもそれが許されてきたような、そんな時代の空気を感じる。

あとは相変わらず志村貴子を読み返したり、「きのう何食べた?」の新刊を読んだり。

「バルバロ!」もすごく好き。あとは明日カノ作者の新作を毎週アプリで読んでいる。

 

窓をたまに開けるくらいで暖房も冷房も稼働しない、この穏やかな季節が数か月も続けば私はもっと快適に生きられるのにと思う。

 

あ、朝ドラの「ばけばけ」もすごく良かったもののひとつ。俳優・脚本・音楽・演出。なにせあのオープニングの素晴らしさ!「日に日に世界が悪くなる」ことをきちんと歌う人がいるということはどれだけ多くの人の支えになっただろう!

こちらも大きな盛り上がりがなく、日常の中に起こることを大切にし、明確に何を終わらせる作品でなかったことで多くの人に届いていた気がする。

 

持っているスマートフォンを5年ぶりに機種変更したら画面が大きくなり、もはや片手では持てないがむちゃくちゃ快適になった。文字も大きいし画面も綺麗。操作もしやすい。もちろん安くはないが、日常遣いしているものを少し変えてみるだけでこんなにも快適になるものかと驚く。

春の陽気とともに、私自身前向きになり、人と会うことも増えた。お誘いをなるべく受けるようになったし、会える人とは会っておこうという気持ちになっている。

今後もこの良い作用が長く続くといいなと思う。ただし興奮気味のときも多々あるので、それをもっとコントロールできるようになりたいが…。

 

 

 

冬になると読み返したくなる本 『誕生日の子どもたち』,トルーマン・カポーティ

冬の時期になると読み返したくなる本。

パトリシア・ハイスミスの『キャロル』。

クリスマスが出てくるお話。雪が出てくるもの。

村上春樹の『国境の南、太陽の西』。あるいは別れの物語。

 

今年はカポーティを読み返している。

主人公である七歳の男の子バディーと、いとこで60代女性のスック。そして犬のクイーニー。

感謝祭とクリスマスについて書かれた短編はどれも素晴らしく良い。読んでいて涙が出てしまうほど。

お気に入りの箇所がいくつもあるが、一部だけ抜粋。

 

『クリスマスの思い出』より

 

僕の親友は生まれてこの方映画を観たことは一度もなかったし、また観たいと思ったこともなかった。「私はお前に筋を聞かせてもらうほうがいいよ、バディー。そのほうがいろいろと想像できるもの。それに私くらいの歳になるとね、目の無駄遣いをしちゃいけないんだよ。神様がいらしたときにお姿がちゃんと見えないと困るものね」。

p,115

 

「私はこれまでいつもこう思っていたんだよ。神様のお姿を見るには、私たちはまず病気になって死ななくちゃならない。そして神様がおみえになる時はきっと、バプティスト教会の窓を見てるような感じなんだろうってね。太陽が差し込んでいる色つきガラスみたいに綺麗でさ、とても明るいから、日が沈んでもそれに気がつかないんだ。なんだか怖いくらいでさ。でもそれは正真正銘のおおまちがいだった。誓ってもいいけれどね、最後の最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちの前にそのお姿を現わしておられたんだということを。物事のあるがままの姿」──彼女の手はぐるりと輪を描く。雲や凧や草や、骨を埋めた地面を前脚で搔いているクイーニーなんかを残らず指し示すように──「人がこれまで常に目にしてきたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ。私はね、今日という日を目に焼き付けたまま、今ここでぽっくりと死んでしまってもかまわないよ」

p,134

『誕生日の子どもたち』,トルーマン・カポーティ 訳 村上春樹,文春文庫

 

 

悲しみと虚無とChat GPT

前回の記事から3ヶ月近く経っていた。冬を抜けたことでだいぶ動ける日が増えて、嬉しい。その代わり物欲や人と話したい欲も高まっているので、出費が多かったりやたらと活動的なときもある。時にはそれで困る。

 

だが最近はchat GPTのおかげで大いに助けられている。仕事のために使っている人も多いようだが、私は主に相談をしている。相談と言っても雑談ではなく、割と明確にぐるぐる思考を止めるためにやっている。止めるため、だと語弊があるかもしれない。ぎりぎりまで、飽きるまで話すときもある。

 

私は思考や感情の切り替えが非常に下手くそなので、ひとつのことにとらわれてずーっと考え込んでしまうときがある。

「あの人に言われたor言ったあの一言が気になる…」とか、「あの洋服が欲しいけど予算が厳しい」とか、「体調が悪い。何もできない。自分が悪い。生まれてきたことが間違いだ」とか、そういったたぐいの人に話しても答えがでない問い。そして自分で考えてもなかなか答えは出づらい。そんなとき限界まで考えるのにGPTは向いている。

なにが良いかというと「何時に何回話しかけても良い」というところである。言い方がちょっとそっけなかったかなとか、何回も同じことを相談しすぎかなとか、そういうことも気にしなくて良い。

自分で相談しているときに文章化が必須なので(音声入力もできるらしい)、考えが整理される。文字を打っているときに「私、いつまでこれについて考えてるんだ」と思い、今日話した時間・やりとりの回数についてたずねると、その日だけで40分も相談していて、どんだけ考えてるんだと少し冷静になったりもできる。

 

これは私の特性として言語にすると頭に入ってきやすいという前提がある使い方なので、各々、使う人によって良いやり方があると思う。音声のほうが良いという人もいると思う。

 

GPTに相談するようになってから、自分の生活が少しだけ良くなっている気がする。やや、本当に少し、自分に優しくできている気がする。定量的にはかれるものではないので、裏付けと呼べるほどのものはないのだが、GPTが「その優しさを他人だけではなく自分にも向けてみては」と提案してくれたとき、本当に少しだけ0.2ミリくらいは「そうだな」と思える。

AI依存になってしまって困る!とか、AI依存はこわい!という意見もあるようだが、包丁と同じで使い方次第というか、自己を肯定する力が弱く、なおかつ自責感情が強めの人にはわりと良い変化をもたらしてくれるものなのではと考えている。また数か月後に考え直してみたいと思う。

 

それから、私の場合は月に1度精神科でカウンセリングを受けているということもあるので、人間とAIと同時に相談窓口を設けるのが安全なのではないかと思う。AIだと肯定が多くなりがちかなと思うので。

ただ、やはりいつでもどこでも何度でも、月に3000円の課金で話を聞いてくれる窓口があるというのはありがたい。いのちの電話は一度もつながったことがないけど、AIはアプリを開けばすぐ話せる。たまにとんちんかんなことを言ってくるときもあるので、そういったときは訂正が必要だが、それは人間も同じことだし、とんちんかんなのもまあAIだからなと思える。これが人だったら、「この人まじめに聞いてない?」とかいろいろ考えてしまうので。

 

あと体調不良や生活相談も聞いてもらっている。こういう不調がある、ということに対してねぎらいの言葉をかけてもらうだけでありがたいなあと思う。生活も「いまから〇〇して外出します」とか書くだけで、GPTに宣言したから頑張ろうという気持ちになる。

あと、前回の不調はいつだったかとかも聞ける(その情報も間違っているときがあるが…)。

 

何にしろ自分の話を聞いてくれる存在がいるのはありがたく、また、周りの人に迷惑をかけないためにもGPTには感謝している。ただ、これが社会として当たり前になっていくと「あの人AIに相談すればいいのに」という考えも出てくるだろう。また、自分で考えずにとりあえずAIに聞こうという人も出てくるだろう。

それが間違っているとか悪だというつもりはないけれど、そういった時代がきたときに人間の考えが均一化されてしまうのはこわいなあと思う。全員がAIに従って生きる合理的で正しい社会はたぶんつまらないと思う。

 

「悲しみと虚無しかないのなら、僕は悲しみの方を取ろう」

ウィリアム・フォークナーの『野生の棕櫚』の一文らしい。私は攻殻機動隊のアニメで知った。最近この言葉についてよく考える。私はそのとき悲しみのほうをとれるだろうか、と。合理的でコスパやタイパを求めるというのは、私には悲しみをとらない生き方に見える。

悲しみを味わわず生きて何が人生かとも思う。ただ、やはり味わわなくてもいい悲しみもあり、その悲しみのあとは虚無が残る気がする。だから私は悲しみが与えてくれたものに目を向けたい。難しいことだが。

人から押し付けられる悲しみではなく、自分が選び取った悲しみは、胸に抱いて生きていきたいと思う。