就労支援が受けられない病人(わたし)はこの先どうすりゃいいですか?生産性のない人間に関して
就労移行支援の事業所に2年通って就職して体調崩して辞めちゃった人はこの先どう生きていけばいいですか?
と思ったのである。就労移行のサービスは一生に一度、2年間しか受けられない。その後退職しちゃった人ってどうやって生きているのだろう?A型・B型の作業所?クローズで働く?デイケア?生活保護?…わからない。
また厄介なのが私がまあまあ普通に見えるってことなのである。大学時代も何とか過ごせていたので、友人にも特に病気があることって明かしていない。(何かしら察している人はいると思うが)
生活できている。役所とか病院とかも何とか行けるし、会話もできる。読書会も行ける。でもそのあとものすごく疲れる。人と会った後はナーバスになる。でも人と会わないと寂しい。誰かとつながりを保っていたい。
自分の病識というのがあいまいになってくるときがある。人に何か言われたとき、病気に見えないねと言われたとき、自分より年上の人とよどみなく話せていると思うとき、自分でも病気のことが信じられなくなってくる。私って本当に病気なんだろうか。もしかして気持ちの問題?甘えって奴だろうか?と。
そして働いたり人と話してみたりして、その後ズーンと落ち込む。ああ、やっぱり自分はおかしいのだと再確認して、ちょっとホッとするような、おかしな気持ちになる。薬の量が増え、医師にお墨付きをもらえた気分になる。
その繰り返しをしていて一体何になると言うのだろうか。
私はこの先の数十年間をただそうして生きていくのだろうか。
生きるためのモチベーションがない。他の人はどうしているのだろう。
日々の生活をやり過ごしながら、精神的な苦しさを抱えて生きることが何のためになるのか。
私は人生に問われているのか?生きるということを?
みんなの幸せは何ですか。何をモチベーションにして生きていますか。私はもう疲れています。
子どもを持つ(この言い方がもう嫌。モノのようだ)ということも全く考えなかったわけではない。だが自分の遺伝子を残してなんになるというのか。好きな人にそっくりな子だったらもしかしたら可愛がれるのかもしれない。だが自分にそっくりだったら?自分の親に似ていたら?パートナーは家事を手伝ってくれるか?教育方針は一致するか?大学まで行くお金があるか?奨学金を返済させることはしたくない。私が受けたのと同程度くらいの教育は受けさせてあげたい。大学院に行きたいと言ったら行けるだけのお金も用意してあげたい。お小遣いだってあげたい。アルバイトはなるべくしなくても良いようにしてあげたい。願いは無限に出てくる。
その一方でただ自分がコントロールフリークというか、自分の願望というものをただ実現して満足したいだけではないかという気がしてくる。倫理観を持ち、それなりに賢く、人に優しく、公平な人物であってほしいと思ってしまう。でも子どもが自分の思い通りに育つわけはないし、自分の理想と全く違う方向に進んでしまったとき受け止められる強さが私にあるだろうかと考える。
恐怖も浮かんでくる。子どもが殺されること、誘拐されること、事故に合うこと、性犯罪に巻き込まれること、そして私が子どもを叩かないとは限らない。理性的でいられるとは限らない。
「しかし生活のために働いていなければ人間としての値打がないということならば、世のなかには、ほかにも同列のひとがたくさんいるはずであるが、彼らはみな価値がないことになるのであろうか。/こういうものの考えかたの根底には、人間の価値は経済力によってきまる、という価値判断がある。病気のため、その他の事情のため、働くことができなくなったひとは、自分も今まで無意識のうちに採用していたかも知れない上のような価値基準に対して再検討と変革を加えなくては、劣等感を克服することはできないであろう。」(神谷美恵子『生きがいについて』、みすず書房、p,166)
昨今「生産性」というものに言及する人がおり、私は憤りを覚えた。すべての人間がただ生きている権利があると思った。だが、私自身の心の中にもこの考え方があるのだと気づき恐ろしくなった。生産性の有無という考え方を持っていなければ、私は働けていない自分に対しここまで苦しむことはなかったと思う。私の中に差別的な考えがあるからこそ、私は私を苦しめ、そしてまだどこにもいない我が子を苦しめようとしている。
私は実存的なことをすべきだ、と思う。机上で考えるばかりではなく、手を動かし、汗を流して目の前のことをやるべきだと思う。だが、たくさんのささいなことが私を刺激する。私はその前になすすべがなく、生活に溺れることができず、ただ自分の精神に溺れていく。