赤毛のアン40話「ホテルのコンサート」について

今日は洗濯ができた。

ごはんのあと薬を飲んだらなんだかいい気分になってきて、あれやりたいこれやりたい!という気持ちが浮かんできたが、結局やる気も体力もついていかずそのまま霧散した。

 

赤毛のアン」のアニメを40話まで見た。

もう小さかった頃のアン・シャーリーはおらず、聡明な年頃の女の子がいるだけのように感じてしまい寂しい。あの頃のアンはどこにいったのか、この子は本当にアンなのだろうかと思うが、本人としては社会になじめている今のほうが生きやすいのだろうし、毎日を傷つきながら何かと衝突しながら生きていたあの頃よりいいのだろう。

しかし、あのアン・シャーリーが失われてしまったいま、何をモチベーションとしてこのアニメを見ればいいのかわからないという気持ちもある。

 

また、アンの精神性がすごく立派なのにも引け目を感じてしまう。

コンサートに行った日の帰り道、アンの友人が「お金持ちになりたいわよね、みんなもそうよね」と言う。会場にいた人がつけていたダイアの首飾りは素敵だったわよねと。

アンは「私は私以外にはなりたくない、マシュウがプレゼントしてくれたこの真珠の首飾りに愛情がこめられていることを知っているのですもの」と言い切る。

友人は「でも、ダイアは人の心を慰めもするわ」と言い、アンの無二の親友であるダイアナは二人に挟まれて黙っている…。

この時、皆がアンの言ったことに賛同せず、ダイヤの価値を語ったり黙ってしまったりすることが「赤毛のアン」の良さだと思う。皆それぞれに考えがあり、アンのすることが決して物語の全てでもなく、この世の正しさでもない。ただ、アンの精神は高潔なものとして描かれていると思う。

私はダイヤも美しいと思うし綺麗な服も着たいし、自分に向けられてきた愛情も大事にしたい。どちらも自分が追及したいだけ追及できれば一番良いと思う。