恋をしていても、人は死への思いから逃れられない

彼の卒業の日、私はというと何にもやっていなかった。ただひたすら眠りこけていた。外出する気力もなく、ご飯の用意すら困難で、ツイッターに何か書きこむのですら大変な労力を要するのだった。

もし私も今年度で卒業だったら、とあり得ないifを考えてみたけれど、だからといって何も変わらなかっただろう。せいぜい飲み会の数が増えたくらいだろうか。

 

どうしてこんなに憂鬱になるのか理由はわかっているんだ。理由に、他の理由がプラスされてもっと苦しくなっている。何かに没頭するしかない。気が散らないように、死から逃げる。映像を見て音楽を聞いて、なるべく頭の中を情報でいっぱいにする。死や憂鬱を見ないふりをする。そうやってやり過ごしていくしかない。

 

彼が私のことを少しでも後悔してくれていたら、思っていてくれたらというようなことを人に話したら、もうちょっと望んでもいいんじゃないかと言われた。自分を安売りってやつか?でももう、私にそんな価値があるとは思えない。けど、その発言を肯定できるほうがきっと他人に大切にされる人間になれる。

ねえ、私の事で悶々としてくれよ。悔やんでくれよ。そしてもう一度電話かけてみようかなとか、食事してみようかなとか、血迷ってくれよ。なんで君はそんなに心が乱されないんだよ。

 

いつも、いつも真面目な人を好きになってしまうから、だからゆっくり恋愛をしなければいけないのに私は待てないのだ。相手はいつも、初めての人と結婚したいというような純朴な青年ばかりだ。もちろん私だってそんな考えを持っているけど、好きになって、あなたへの欲求が抑えきれないんだ。どうしたらいいと思う?諦めるしかないよそれは。

 

また、何年も忘れられない人になるのかな。嫌だな。苦しいな。

 

恋をしていても、人は死への思いから逃れられない。そしてそれは恋が原因ではない。わかってるのはそれだけ。

「こんな人間が幸せになれるわけない」って目をそらしてはいけない

失敗したり悲しいことがあったりすると、「そりゃこんな人間が幸せになれるわけないよね」「こんな顔で恋愛できるわけないじゃん」と思うのはやめなければいけない。それは本当の問題から目をそらしていることになるから。答えはその中にはない。自分の行動の中にある。

でも、いつも原因究明すればいいわけではなくて、なんとなくこういう流れだったと思う時も大事。自分は傷ついているんだ、悲しんでいるんだということをなんとなく観察できれば十分。

「わーーーーー!!」って叫び出したくなることあるし、誰かに全部ぶちまけたいって時もあるけど、大丈夫。時が解決してくれる。私は経験的にそれを知っている。

星の巡るのを待とう。

過去と現在の彼ばかりで、未来の彼は少しも好きじゃなかった

終電を逃せなかった私の思いを乗せて新幹線は悠々と走る。今夜乗っているのが新幹線で良かった。だって心をものすごくはやく、どこかへ連れ去ってくれそうな気がするから。さっきまでの私を遠くに置いて。

 

誰でも良かったわけではないしもちろん彼が良かったわけだけど、甘い部分だけもらうことは不可能だし、上手くいったとしてもいつか終わりが来る。私の思いを伝えていないのに、相手の思いばかり知ろうとしてはだめなんだ。要求ばかりで、子どもみたいな恋だ。二人でやるということを忘れていた。

 

今夜一晩限りの思い出が欲しいとかそんなわけではなかったけど、今夜楽しく話せたらその先もどうにか続いていけそうな気がした。

 

でも幸せだった。お互い初めて入るお店で、カフェモカを飲み終わっても雑談は続いて。あなたは私を終始見つめて目をそらさなかったけど、本当に私を見ていたのだろうか。私の瞳に映る自分を見ていたのではないか。私の行動を真似したって無駄だよ。どちらかが言い出さなくては。だから言い出したのにはぐらかされたからその時点でもう、先が見えなくなってしまったのだ。恋愛にグレーはない。好きか嫌いかだよ。恋は人を分け隔てるものなんだよ。

 

赤いマフラーを拒否されて、それでも終電まで一緒にいてくれて、カフェモカは美味しくて、脈はあったけど本当は脈はなくて、雨は降ってたけど外は寒かったけどそんなの何でもなかった。足りないものは何だったんだろう。覚悟かな。最高のタイミングだったし、邪魔するものなんてほとんど無かったのにね。

 

あなたのいる土地を訪ねることもないでしょう。幸せになってくれよ。「今すぐ死んだほうがいい」って心を和らげてくれる素敵な人が見つかるといいね。見つかっても知らせはいりませんので。

気持ちのガサガサ

今日は気持ちのガサガサみたいなものがない。

早く春になってほしい。そしたら貯金をおろして、ひらひらした全然あたたかくない薄い洋服を何枚も買って、足を出して、かわいいパンプスやバレエシューズを履きたい。スカートをひるがえしながら、大好きなひとのところへ向かいたい。

 

私の好きなひとは誰だろうか。いや、定まってはいるのだけど、範囲が広すぎるのだ。気が多いと言うのだろうか。

私は、女友達でも男友達でも先生でも後輩でも先輩でも恋人でも、とにかくいろんな人が好きで、いろんな人と笑いあいたい。一緒にいたい。本当は見返りを求めずに、相手に尽くしたい。いろんな人とご飯を食べに行って、少しはお酒も飲んで、そのスカートの柄とても素敵だね、先輩は手が綺麗ですね、先生は学生時代にどんな恋をしていましたか、なんて会話をしたい。たくさんの人とお手合わせ願いたいのだ。たくさんの人に出会いたいのだ。

私は寂しいんだろうか?だから人に飢えているのだろうか。それだけなのかもしれない。ただそれだけで、人を振り回そうとしているのかもしれない。

 

それでも、生きてゆく」を5話まで見終わる。音楽に感動して、弟に同情して、おばあちゃんに会いたくなる。

少女革命ウテナ」を見て、「「わたしがいないとあの人だめ」は、「あの人がいないとわたしだめ」ですよね」というようなセリフを思い出す。本当に必要としているのは、自分の存在価値なのかもしれない。存在価値がみんなに配られるといいのだろうか。名札とかに「存在価値:生きてること」とか書いてあるといいのかな。そしたらもっと生きやすかったかなあ。

自分の存在とか死について考えることは最近ずいぶん減ったけど、苦しくなる瞬間はまだたくさんある。どうして苦しくなるのかわからないから、もっと苦しくなる。きっと暇だからいけないのだ、と考えてみても、忙しい時は死にたくなるし、結局どうしたらいいのかはわからない。騙し騙し、進んでいくしかないのかもしれない。

「みんなはどうしてますか?」って聞きたい気もするけど、感じ方には違いがあるから、「え、何その感情」って言われることがこわい。そんなこわい思いをするなら孤独に耐えていたほうがマシかもしれないと思う。

でも耐えられないから、人は本を読むし音楽を聴くしインターネットをするし文章を書くんだろう。そうやって自分を延命させている。

悲しいことはほこりのように積もっていくから、幸せの基礎が必要だ

三日くらい、全然遊ばずにぼーっとテレビとインターネットばかり見ている。なんでこんなに疲れているんだろう、ウツか?と思っていたけれど、考えてみたら二月と三月で四回も、泊まりで県外に行っている。そりゃ疲れるよね。

行った先ではどこでもそれなりの思い出ができて、楽しい事もつまらない事もあった。「あーなんで自分ってこんなにコミュニケーションが苦手なんだろう」とか「ああ、勇気出して言えば良かった」とか後悔もいっぱいだ。でも、私の中に記憶が積もっていくのは嬉しいことだ。生きてるって感じだ。

生きてることを感じられるのは嬉しい。いつもはより死に近いところにいる気がするから。旅行で新しいものを目にして、そこでの空気を吸っていると生に近いような気がする。いきいきできているような気がする。

 

本棚の横でこれを書いているんだけど、少しすっきりした本棚を眺めていると嬉しい気持ちになってくる。できる時で良いから掃除、頑張ろう。

嬉しいことを積み重ねて、人は生きていくんだな。悲しいことは放っておいてもそこかしこに、ほこりのように溜まっていくから、意識的に嬉しいことを積み重ねなければいけない。そして、積み重ねた先から壊れていく嬉しさもあるし、長い間とどまり続ける幸せもある。基盤になるような幸せが欲しい。私の基礎となる幸せが。

気付いたらもうとっくにここにあったのにねっていう幸せが。