感情は私を照らし続け、言葉は時に私を縛った

負の感情について書いた記事に星がついてびっくりしている。自分では何がいいのかよくわからないけれど、星がついているのだから何かにひっかかったのだ、たぶん。

 

私はずっと「あなたのせいで」とか「XXXのせいで」という感情は持ってはいけないものだと思っていた。昔から感情にいくつかのブレーキをかけていた。どうしてそうなったのかはわからない。

母は、むかつくとかあの人は太っているとかいう言葉をはっきり言う人だ。私はそう思うのはいけないことだ、大人ならなおさら思っても言わないでおくべきだと考えていた。けれど最近、多少は口に出すことも大事だと思えてきた。負の感情はきっと誰かを傷つけたり疲れさせたりするからこそ吐き出すべきなのだ。吐き出さなければ自分が壊れてしまうということもあるかもしれないから。もしかしたらあの時、母は自分の中にたくさんの物を溜め込んでいたのだろうか。

 

平等、協力、博愛。そんな言葉たちを大事にして生きてきたけれど、どうやらその言葉を真正面から受け止めるだけでは私の望む生き方はできないらしい。言葉のなかにはその言葉以上のものが詰まっていることを忘れてはいけない。いつも言外をみつめろ、みつけろ。言葉通りなんてことはそうそうないのだ。

 

以前お医者さんに「母のせいで」と思ってしまうことがあるという相談をした。

「自分のことだし母のことを責めるのはちがうな、というのはわかってはいるんですが…」という私に先生は「自然な感情じゃないですか」と言った。

これは自然な感情なのか!びっくりした。誰かのせいにするなんて卑怯だと思っていた。

「お母さんに対してそう思えたのは大事な一歩ですね」と先生は付け加えた。

これが一歩。後退ではないのだ。私は気づかぬうちに進んでいる。

 

私と彼女はちがう人間。私と彼はちがう人間。切り離そう。線引きをしよう。自分と他人の境界線に大好きな色を引こう。

それが、私のおとなへの一歩。