「アメリカに行こう」とアズマくんが行った。私はまたか、と思った。またか、という反応をしてしまったのは、なにもアズマくんが年がら年中アメリカに行きたいと言っている人だからではない。また彼のクセが出たな、と思ったのだ。突飛なことを言うのが、ここ数年の彼のアイデンティティになってきているのは、私も彼もよく理解していることだ。けれど彼は、その状態になると忘れてしまうのだ。自分の状態や、環境や、パスポートすら持っていないことも。
「で、どうしてアメリカなの?この前は東北に行きたがってたじゃん、被災地を
見たいとか言って」
「やっぱりニューヨークだよ!ニューヨークに行けばいろんなことがわかる。いろんな人がいて、誰もオレのことを気にしないし、オレも何かを気にせずに生きていけると思うんだ!」
彼は鼻息を荒くしながら言った。
「ニューヨークはでかい!きっとオレの悩みがちっぽけに思える!英語はその土地にいれば自然にしゃべれるようになると思うし、仕事もなんとかなると思うんだよね。そういうのなんかの小説で見たんだよオレ」
アズマくんはひとりでブツブツ話しながら部屋の中を行ったり来たりしている。完全にいっちゃってる。
「あのさ、パスポートとかどうするの。旅費とかもさ」
「パスポートは取りに行けばいいし、旅費は貯金でなんとかなるよ!」
「私、バイト休めないよ。ねえ、ちょっと落ち着いて」
肩に手を置いて、彼を少しみつめたあとそのまま抱きしめた。けれどアズマくんはわたしの体を引き剥がし、足音をどんどん鳴らして部屋の隅まで行ってしまった。
「なんだよお前」
「なんだよって…」
「なんなんだよ、またあれかよ、病気のせいかよ、このオレの思いつきをまた、病気の…病気の…そういう思いつきで、思い込みだって…は、は、ハイになってるって…ハイだって言いたいのか…」
彼の右の拳が、壁を何度も何度も叩いた。コンクリートにあたって、べちんべちんと鈍い音がした。壁すらかっこよく叩けないアズマくん。こういうときどういう反応をすれば一番良いのか、わたしはアズマくんと出会って数年経つのにまだわからない。
「ごめんね」
謝ってから、自分のバッグを持って玄関を出た。今日は自分の家に帰ろう。アズマくんもしばらくしたら落ち着いて、そしたら、そしたらきっとまたいつものアズマくんに戻ってくれるはず。バッグからハンカチを取り出して涙をぬぐった。ハンカチについているハリネズミはアズマくんに似ている。そのトゲはわたしだけじゃなくてアズマくん自身をも傷つける…ジレンマってやつだ。あ、それはヤマアラシだったっけ。ハンカチをぐしょぐしょにしながら、明日のアズマくんはどうかいつものアズマくんですようにと強く強く願った。