悲しみの感度

 尊敬している人が去ってしまう。死ぬのとは違うけれど、去るということはとても悲しく寂しくやりきれない。今日はそのことがずっと頭から離れず、泣いたり寝たりをくり返していた。

 私が一番傷つくときは、自分自身の悲しみを悲しんでいるときではなくて、誰かの気持ちを想像したときである。もちろんその人が、私の想像したように悲しんでいるかどうかなんてわからない。数値化も、はかりに載せることもできない。ただ、その人がいまどんな思いでいるのか想像すると悲しくて仕方がない。その人自身、その人を尊敬していた人、その人を好きだった人…みんなの心を想像するとつらい。

 人は、大げさとか偽善者と言うかもしれない。私も、自分はどこかおかしいのではないかと思っている。こんな風に考えすぎるのは異常なのだろうか?誰かの心に寄り添いたい。ただ、悪意や鋭い言葉は悲しい。それを使わなければいけないくらいその人が傷ついてしまったのも悲しい。こんな時はどうすればいいのかわからない。

 誰かに共感してほしい自分がいる。悲しい気持ちを受け止めてほしい。でも、いまは誰もその力が疲れ切っている。声が、ききたい。

電波は下水道とかにつながっている

 電話をかけて相手があまりにも出ない時は、xxxxxxという名前の誰か別の人にかけてしまっているのかもしれないと思う。もしくは、下水道か宇宙につながっていて、相手は一生出るはずなんてないのだと想像する。ラインもメールも返ってこないなら、私はどうすればいいんだろう。文明に頼りすぎて、相手にすぐ返事をもらうのが当たり前になってしまっているから、もしラインも携帯電話も何もかも消滅しちゃったらどうしようって時々考える。私、どうやって彼と連絡をとればいいの。

 将来への不安みたいなものがいらだちをつのらせる。お金はいくらあっても足りない。支援者はいればいるほど良い。寒い冬は朝を遅くする。くもりの日はドアを遠ざける。雨の日は頭が痛いから、生きるのをためらってしまう。あまりにもうまくまわらない。

 いつでも死ねるから、それだけは設計上成功したね、と思う。

「本当の友達」ってなんだ?

 自分の友達に対して違和感を持つことはありますか。

 私は最近そういうことが何度かありました。こいつ、昔と変わったなと思ったり、話が合わなくなったなと感じたり。お互い違う環境にいるからか、年齢を重ねたからか。それとも私が変わってしまったのか。

 長い間会っていないと、何を話していいかわからなくなります。何年も会っていなくても、昔のように話せるのが「本当の友達」なのでしょうか。

 近頃、この「本当の友達」というものについてよく考えます。そんなの本当に存在するのだろうか。コミュニケーションというのは自己開示しまくればいいってものではないし、何でも話せるイコール「本当の友達」ではないと思う。太宰治人間失格で書いている「世間」のように、「本当の友達」というイメージに私が縛られ過ぎているだけかもしれない。

 けれど、20歳も過ぎて友達がいないというのは、焦る。正直焦ります。遊びに行ったりご飯を食べたりという友達は居るけれど、「本当の友達」かと言われれば違う気がする。わからない。

 知人は「離れていても、何年も会わなくても自分のことを思っていてくれると信じられる相手」がいると言っていた。それが「本当の友達」かもしれない。わからない。

 私はいま、すごく大切にしたい人が何人かいる。そういう気持ちがあればそれでいいのかなとも思う。たとえ、相手が私のことをその他大勢としか見ていなくても、私はその人たちのことが好き。自分が相手を思う気持ちが確かなら、それでいいのかもしれない。

 あなたには「本当の友達」がいますか。

愚痴と変わった愛情表現

 

tigtig8.hatenablog.com

 

 

 読みました。

 愚痴、って心が苦しくなりますよね。いや、私も言う時はあるんですよ。あの人なんなんだーとか、これって私が悪かったのかーとか。でもそればっかり話すのはきついよねというお話。

 最近、高校の頃の友達と久しぶりに会ったのですが、その子がものすごく愚痴を言う人で、とてもつらくなりました。高校の時よりも過激になっていて、会話の8割が愚痴でしたね。人は人を切り捨てなきゃ生きていけないというような話をしていて、私はそんなことはないと思ってるんですが、その子にそう言わせてしまうだけのつらいことがあるんだろうし、実際世の中というのは厳しいものなのかもしれません。愚痴って、楽しいことよりも言いやすいのだと思います。でも、できれば楽しいことを見つけて生きていく人生のほうが良いなあ。簡単に縁を切るとか、そんなこと言わないで生きていきたいなあ。それじゃだめなのかな。

 あと、男の人で弱みを見せてくる人があんまり好きじゃないです。いやいや、それは腹の中にしまっておこうぜって思います。仲良くなったから弱みを見せたり相談したりするというのはもちろん理解できるのですが、いくつも年上の男の人が弱いところを見せてくるといらっとします。甘えんなよと思ってしまうのです。

 この人は受け入れてくれそう、と思われているのでしょうか。この人なら何言っても否定してこないだろうとなめられているのでしょうか。そういった態度に萎縮して、ますます自信を無くしてしまう冬なのでした。(ちなみに本人はこのブログを見ていませんので、どきっとした人がいてもあなたには関係ないです。大丈夫ですよ)

 

 あと、話が逸れるんですが、悪口にしても好意にしてもあまりはっきり言いすぎるのは美しくないですね。最近女の子同士で「私はxxのこと大好きだから~」「私も~」というような会話を聞いて、私にはできないなと思いました。そういうのはたまに言葉にするから美しいのですよ。人前で言いすぎると、なんだか周囲へのアピールのように聞こえます(できない者のひがみでしょうか)。それから、悪口で愛を表現するのも意味不明ですね。「xxはブス」(xxはアイドル)と言っている子に「嫌いなの?」と聞いたら「愛してるがゆえのなんちゃら」と言っていました。最近こういう愛情(愛憎?)表現の形が流行っているのでしょうかね。おわり。

 

楽なはずなのに苦しい気もする日記!

 寝るか食べるかインターネットかという不健康な生活を送っている。休みに入って10日ほど経つが、人に会っていないし、会話もしていないし、外に出ることも少ない。けれど、学校が無いというだけで本当にストレスが無くてびっくりしている。朝起きた時の吐き気もないし、体のこわばり、緊張感、焦り、憂鬱が皆無に等しい。ああ、素晴らしい毎日。けれど、これは春休み明けに学校が始まるからこそだろう。無職だったらたぶん毎日つらいと思う。ああ、今本当に楽。楽しいかどうかと問われれば、刺激も無いし、つらいことが無いぶん楽しいこともない。けれど楽。これでいいのかなーなんて思う時もあるが…。周りの大学生はきっと旅行やらバイトやら遊びやら勉強やらやっているのだろう、それに比べて私は…と憂鬱になるときもある。だが、そんな世間の価値観がなんなのだ!と強気な自分もいる。3月にはたぶん東京に行くだろう。だから良いのだ。

 他人と自分を比べたくない。私はひきこもる。外の世界は苦しいから。9月からずっと頑張ったのだから、しばらくは家の中でずっとずっと暮らすのだ。ああ、誰かに君は正しいと言われないと安心できない。なぜだ!