精神看護9月号「表現の中で安全に壊れる 回復に殺されないために」を読んで

精神看護9月号「表現の中で安全に壊れる 回復に殺されないために」を読みました。

巻頭の対談に非常に救われたので、書き記します。

 

 

赤坂真理さんと倉田めばさんの対談。

敬称略。いくつか引用します。

 

倉田:「回復者」として見られているらしい自分をこのまま演じていたらヤバいな、気持ち悪いなって。「回復者」って言葉がウザいし重いんです。たまには手首切りたくなるし、時々死にたくなるし、こんなにしんどいのにそんな目でみないでほしい、「回復者」などと言わないでほしいし、「回復のサンプル」などという言葉を聞くとサブイボが立ちます。

(中略)

赤坂:「よい回復者」として認められようとする。そんな語りの型があるのでは? そこを反復して、社会を満足させる話を言い続けてしまう……それが「回復に殺される」ことかな?

だけど、その人が薬をやめられたからといって、それでたとえば社会にしかるべき地位を得たとして、本当に幸せかどうかというのは、わからないわけですよね。

回復者について語る二人。非常に納得できるというか、うんうんとうなずける会話でした。

私は世間一般に合わせたい・認められたいという欲求が強くあるため、ずっと回復を目指して良き回復者になろうとそれなりに努力してきたつもりですが、お二人は回復した先の自分に目を向けていたので、そういえば私って本当に回復したいのか、私にとっての回復って何だろうと考えました。

結論はまだ出ていないのですが、上記に書いたように”世間にとっての”良き回復者になることを目標として生きていくのはあまりにも虚しいなと感じました。

 

倉田:Facebookに真理さんが「大きく壊れるんじゃなくて、小さく壊れよう」みたいなことを書いてましたね。あれは本当だなぁって。そういうことをやってたら、鬱にならないかもね。

赤坂:全体がクラッシュするのを救うために、どこを(原文ママ)部分的に壊すんだと思うんですよ。(中略)家族の機能不全があった時に、「あの子さえいなければ、ウチは完璧なのに」みたいに思うんだけど、実はその子がいるから家族がもってるという。

全体が壊れないために部分的に壊れるっていうのは、いろんな所で起きている。ただそれを無自覚にやってしまうと、やっぱりちょっと危険なことなので、自覚的に意識をもって、できたらいいのではないかなと。

小さく壊れる、という発想。

綻びがあらわれたときに、それがあるから全体がもっているという考え。

 

倉田さんは4回精神病院に入院し、その後自助会のミーティングに参加されたときに「私はミーティングで正直なことなんか絶対に言えない」と相談者に言ったそうです。

そこで「ポーズを取り続けなさい」と言われた。そしてそのことが回復をもたらしたところがあると語ります。

赤坂:繰り返し話している間にちょっとずつ違ってきたことってある?

倉田:ある。「あっ、ここは私、避けてる」とかさ、「ここはすごくやけに誇張してる」とかに気づく。

赤坂:隠すことなどが悪いわけではなく、それが自分にわかる、って大事だと思うんです。

私もミーティングで本音は言えないというのはすごく理解できるし、何年も診てもらっている主治医にも本音を話すというのはなかなか難しいです。

これも私の中で、本音を話す=正しくて偉いことであるという図式があったのですが、必ずしもそうではない。本音は言えなくてもポーズを取り続けることで自分の何らかがわかってくることがあるわけです。

 

 

オンライントーク会にも参加しました。

皆さんがそれぞれに安全に壊れることや回復について、または福祉のあり方について模索されていることがわかりました。

またこういったトークがあれば参加したいですし、突き詰めて考えていきたいテーマです。

今まで自助会には興味がなかったのですが、今回のことで興味が持てたので探して参加してみたいと思います。

 

私はこの記事にも書いたように↓

 

o-kamininaritai.hatenablog.com

就労支援で学んでいたのですが、そこで自分の特性を理解することを求められました。

得意なことと同時に、自分が苦手なこと・できないことをわかっていることがとても重要でした。企業に就職するときに、誰かに苦手部分をカバーしてもらう必要があるので自分でそれを語れないといけないのです。

なので私はずっと自分の苦手な部分を探すことに必死でした。得意なこともあったけれど、それも突出してできるというわけではなくて、苦手部分よりはマシという程度だったので、とにかく悪いところを無くさなければと思いました。

自分のできないことや改善点をたくさん探して「もっとこうすると良くなる」と支援者に報告するのは気持ちの良いことでした。自分の悪いところを認めれば認めるほど「自分をよく観察できているね。工夫していこうね」と褒めてもらえます。

でもそれを何度も繰り返すうちに改善できない部分も出てきて、でも社会に適応するためには改善しなくてはいけなくて、だんだんつらくなってきました。改善できない自分が悪いと思っていたし(今もそう思っているし)、とにかく自分の頑張りが足りないのだと感じました。

結局私は精神状態が悪化してしまって、今は家の中のことを頑張っている毎日です。就労支援に行っていた時より気持ちは落ち着いています。この先のことは見えないし、人と話す機会はものすごく減ってしまったけれど、以前より穏やかに過ごせています。

家族や支援者から見ると「ああ、あの時はもっとできていたのに」と思われているかもしれないですが、私は毎日自分の粗探しをしていた生活にはあまり戻りたくないです。

 

どっちが良いとか悪いとかではないけれど、体調を崩してしまった自分は間違っていないんだとこの本を読んで思うことができました。

この本と、お二人の言葉に出会えて良かったです。ありがとうございました。