「運命の人なんかいない」ということ

理想の人と出会うということについて

 

私は本、映画、音楽、アニメ、エロゲなどなど好きなものを追求するタイプのオタクだ。

立川にガルパンの映画あれば行って極爆上映を観て、三鷹に太宰の墓があると知れば玉川上水に沿って歩き、椎名林檎のライブがあれば神戸や大阪に遠征し、好きなアニメの二期の監督が違えど文句を言いつつ最後まで観る。そういうオタクだ。

で、それとちょっと通ずることで最近気づいたことがある。「運命の人なんかいない」ということだ。いや、2%くらいはいるのかもしれない。この人が運命の人!って思って幸せに暮らしている人が世の中に少しはいるはず。だが、自分にはきっとそんな出会いは無いと思っている。

私にもいつか白馬の王子様とは言わないまでも、多少の欠点は見逃してくれるような私にはもったいないわというような人が現れる…とはあまり思っていなかったが、友人に関しては違った。気の合う友人、師のような友人、メンター、人生を変えてくれる人、引っ張り上げてくれるような人が現れると思っていた。いや、もちろん何人かはすごく好きな人とも出会えた。でもそうじゃなくて、私の欠けている部分にぴったり合うような、相手の全部を好きになって憧れることのできる素敵な女友達が現れないかななんて考えていたのだ。でもそれはちょっと歪んだ考え方だったと思う。なぜなら人間関係は育てていくものだからだ。

アニメや本や映画だって全部を好きになるわけじゃない。絵が綺麗で題材がいいとか、ストーリーと俳優がいいとか、この曲のこの歌詞がいいとか、全部を全部100%好きなわけじゃない。なんだよこれ!って言いたくなるような作品にだってたくさん出会ってきた。その中で自分のとっておきのお気に入りが増えていくのが楽しいのだ。何にも代えがたい幸せなのだ。

人間関係だって本当は同じなのだと思う。全部を好きになるわけじゃなくて、この人の喋り方が好きとか、この部分の趣味は合うなあとか。で、そういう人に出会うためには映画などと同じくある程度の数を重ねなければならないのではないか。より多くの人に出会う必要があるのではないか。

自分の欠けたところにぴったり合う人なんてなかなかいない。多くの人間関係はこつこつ育てていくもので、その中でこの人と一緒にやっていけそうだという人と友達や恋人になるのだろう。

私は全く浅はかだった。他のことなら数をある程度こなし、自分の審美眼を磨こうと思える。普段は気にならないものでも、その時の自分の精神状態と作品がリンクして好きになるということだってままあることだ。

なのに、人間に関してはなぜか運命というものを信じ切って、信頼しきっていた。

ちょっと気づくのが遅かったかもしれないけど、人と合わないなんて当たり前のことだ。だから自分を責める必要はない。長澤まさみからDMが来てヴィレヴァンの前で会うとか、そういう幻想は捨てよう…

と言いつつ、メールボックスとかこまめに確認してしまうのであった。早く解脱したい!