どこまでもどこまでも他人が自分ではないという感覚が希薄

春になって、いや、とっくにもう夏が近づいてきているというか、なりかけというか片足を突っ込んでいるのだが、ようやく調子の良い日も増えてきた。

冬はだめ。季節としての冬は美しいし、もこもこのニットや黒タイツを身につけられるのは大好きだけど、やる気がしない。頭が痛い。常に気分は落ちている。

ところが春は不安定ながらも気持ちの上向く日も多いし、薄着をしてみたり窓を開けてみたり、ちょっと散歩してみたりと少し心や体の窓が開放される気がする。夏はハイになりすぎるから気をつけなければいけないんだけど。

病気のつらいところはセーブをしなければいけないところだと思う。誰だって多少はしているだろう、食欲物欲性欲などなどのセーブ(性欲は薬でかなり無くなっているのだが…)。

自分が楽しいときも「あ、ハイになっちゃう、だめだめ」と薬を飲んだり、「楽しい!楽しい~~!いや、あれ、これ…もしかしてハイ?病気の症状かも?」と自分の楽しさを疑わなければならない(~でなければならない、とか~すべきという考え方も顕著になってくる)。

 

この間、好きなブログを書いている人にメールしてみた。あちらも嬉しいと言ってくれて、私も嬉しかった。私が男だったら会ったりカラオケとかに行けるのかなーと思った。

別にその人を疑っているとかではなくて、自分が女だというのが嫌?というか。自覚させられるのが嫌なのかもしれない。だってカラオケに行ったって、自分の女としての声を聞いて、あの大好きな男性ボーカルを歌えないんだとかぐちゃぐちゃ思っちゃいそう。いや、そういうことではなくて、きっと男の人だと錯覚を起こしてしまうから。簡単につながれるような錯覚を。つまり肉体とかで。決してそうなりたいとかなりたくないとかではなく、自分がその人と親しくなりたいと思ったときに安易にそういったことを選択しそうでこわいというか。自分と他人の境界線が曖昧でこわい。どこまでもどこまでも他人が自分ではないという感覚が希薄なのだ。

だからネット上で知り合った人はなるべく複数人で会うとか、そういったことを心がければ良いのかな、たぶん。

いや、相手方は全く会うことに言及していないのにぐちゃぐちゃ勝手に書いて申し訳ないのだけど。以前からの考えを更に新たにしたのだった。

安易につながれることに甘えてはいけない。他人は他人として尊重したい。そして切ない文章を書いて、同じ音楽を好きでいられる人に敬意を。不快だったら消しますので。