憂鬱のトンネル

憂鬱というトンネルの中に入って行く時、自ら望んで入ったはずなのに抜け出せない抜け出したいと叫んでいる馬鹿が私です。自分を壊したいという衝動に駆られた時、どのように自分を壊すかというプランがまず浮かびます。体に傷をつけること、男の人に自らをさらすこと、お金を一気に使ってしまうこと、薬を大量に飲んでしまうことと方法はいろいろありますが私はどれひとつとして成し遂げたことがありません。なぜならそれは一瞬の快楽に過ぎないことを知っているからです。こうして文章でも書いていたほうがまだいいのです、私にとっては充分過ぎるくらい生産的なこと。一瞬気持ちよくなって、自分を傷つけた気になってもそれは気のせいで、また自分を傷つけなくてはいけない時が来ます。そして消えない傷だけがどんどん増えていくのです。それはもう自明のこと。いい加減私にもわかっていることですからもうしないのです。そのふりだけして満足するのです。それでもう充分心は傷つき、周囲を傷つけているのですから。お父さんが昔言ったことがありましたね、私が自分を傷つけたい時があると言ったらお前も俺に似て破壊衝動があるんだな、と。私のこの衝動は父親の代からの私の血に刻まれたものであったとすれば何も不可解ではない、むしろこの衝動こそが私とあなたをつなぐものだと考えればこれほど絶対的なものもないでしょう、そう思いませんか。どんな父娘よりも私たちのほうがよほど絆で結ばれているのですよ。いや絆は言い過ぎたでしょうか。傷と言い直したほうがいいでしょう。そんなもので結ばれていても何もならないと言う人もあるでしょう。私もそれには全く賛成。あなたがひまわりを植えていることを私が知っていて、お互い体調の良くない日が似通っているというだけで満足です。あなたが私のことまで考えが及ばず父親らしくないことはもういいのです。あなたは少なくとも私を生活させることができているし、お互いの存在を認識できているだけでいいじゃありませんか。トンネルを抜け出せる日が来ると信じて生きるよりも、自分がトンネルの中に居るということを忘れて生活していきましょう。トンネルなど初めから無かったと言えればもう私たちの勝ちです。私たちを縛るのは私たち自身です。私は本当はあんな所に行きたくない。何が楽しいのかわからない。耐え切れないと思う時がある。けれど普通に行われていることですからきっと間違っているのは私のほうでしょうね。