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おおきくなりたくありません

すきなものはたくさんあります。苦手なものはこころのほつれ。

もっと深くて絶対的で、揺るぎのないものが欲しいの

物語

<私の父親になってくれませんか?>

彼女から届いたメッセージは簡潔で意味の分からないものだった。

彼女とは2ヶ月前、心療内科のグループで出会った。クリニックの患者同士で週に2度行われるグループワークでは、自分の過去の体験や現在のこと、これからどうしたいかということを話し合う。時には雑談も交えながら、人と関わることの練習をしていくのだ。同時に、自分の状況を他人に伝えることで、客観的に自己をみつめることもできる。彼女は以前からグループワークに参加しているようで、2ヶ月前が初参加だった僕よりはそこに慣れているようだった。

セッションが終わったあと、参加者同士で雑談をしていたときのこと彼女から僕に話しかけてきた。15歳、中学生、三島みどりという名前。みどりは僕より5つも年下だった。長い黒髪を何度も手で撫でながらハキハキと自己紹介をする姿はとても可愛らしく、好感が持てた。それは幼い子どもや動物を見るような、保護欲とでもいうのだろうか。そんな感情を抱かせた。ただ、みどりは僕の目を見ようとはしなかった。最初は目があっていても、徐々に目線が下がり、最後にはうつむいて喋っている。

これが僕だけに限ったことなのかどうかわからないが、長く心を患っていると他人を見る目が変わってくる。特に他の患者に対してどんな風に悩んでいるのか、この人はどうして病院に通っているのかと注意深く観察してしまうのだ。あら探しをしているみたいで嫌なのだが、このクセはずいぶん長いこと僕に染み付いてしまっている。みどりはいささか自分のことをしゃべりすぎてしまう人間のようだ。興奮していると声が大きくなり、笑い声は特に響く。中学生だからそんなものなのかもしれないが、しんとした病院ではみどりの声だけが大きく大きく広がっていくようで僕は少し不快だった。

僕はみどりにならって、自分の名前と、20歳で大学を休学中だと言った。みどりは大学生なんて素敵、私もはやく大人になりたいとうつむきながら言った。その日はLINEのIDを交換して別れた。その日のうちに今日は話せて良かったですというメッセージが来て、僕もそれに返信したきりだった。そして2ヶ月経った今日、意味の分からない文が届いたのだ。

僕は幼い頃、母親にお姉ちゃんが欲しいとねだったことを思い出した。しかし僕が存在している限りお姉ちゃんというのは無理な話だ。そしてみどりが存在している限り、父親はこの世にいるはずなのだ。

このメッセージにどう返すべきか僕はとても迷った。父親になってほしいだなんて言葉にまともに取り合う必要は無いのかもしれない。しかし、へたなことを言うとみどりを傷つけてしまう気がした。確信に近いものがあった。こころの弱い人間や、病んでしまった人間は、ひとつひとつの言葉をとても大事に生きていることが多いのだ。もちろん病んでしまったことでかえって言葉をむやみやたらに振り回してしまう人もいるが、みどりは前者に思えた。

よく考えた結果、僕は返信をしないことにした。文字だけで何かを伝えるのは難しいし、何を伝えたいかもよくわかっていなかったからだ。とにかく病院でみどりに会うしかない。

 

セッションが終わってみどりに近づくと、彼女は少し恥ずかしそうにこんにちはと挨拶をした。他の患者や心理士に聞こえないようになるべく小さな声で、普通の会話にみえるようつとめて話しかける。

「あのLINEは一体、どういうことなの?」

「すみません、いきなり。あれは言葉通りの意味です」

「父親になってほしいということが?」

「はい、本当にいきなりですみません。でも、初めてお会いしたときからいいなと思ってたんです」

これじゃまるで告白だ。みどりは僕の目を真っ直ぐ見ていた。

「父親って、どんな存在だと思いますか?」

「意味がわからなくて、無口で…」

「理想的な父親って、どんな感じだと思いますか?」

「理想的…毎日6時くらいには家に帰って、家事を手伝って、子どもの送り迎えをして」

「休日はキャッチボールなんかしちゃったりして」

 「うん、それで子どもたちにはパパって呼ばれていて」

「愛してくれて、抱きしめてくれて、うんと甘えさせてくれるような…」

「そうだね、そんな感じかな」

「なってくれませんか?」

「毎日6時に帰ったり、キャッチボールをするってこと?」

「というよりも、パパって呼ばせてくれて私を愛してくれるということです」

「それはさ、彼氏とかとは違うの?」

「彼氏なんてものじゃありません。もっと深くて、絶対的な関係です。揺るがないんです」

みどりの声はどんどん大きくなっていた。そしてその目は真剣で、僕の目から終始逸れることはなかった。僕は思わず顔をそらしてしまった。

「ごめん、ちょっと給湯室に行ってくる」

給湯室はセッションが行われる部屋の奥にある。分厚い扉を開けると、洗い場やら冷蔵庫やら机やらが置かれている。かなりごちゃごちゃしていて、3人くらい入るのがやっとだ。冷蔵庫から大きなペットボトルに入った緑茶を取り出して、紙コップにそそいで一気に飲み干した。そして僕はゆっくりと腹式呼吸をした。この病院の先生が教えてくれた心を落ち着かせる方法だ。10回やった頃、僕はずいぶんとリラックスできていた。冷蔵庫に緑茶をしまおうとして緑という字に反応してしまう。みどりは一体何を考えているんだ。