私は春から、あなたじゃない人と生活を始めます。

あなたのこと、すごく好意的に思ってるから、どうか幸せになってね。私たちはだめなところが似ているね。だめなところが似ていると、だめなところを許し合って認め合えてしまうから不思議だね(嫌悪してしまうこともあるけど)。

あなたの言っていた小説を読んだけど、本当の意味はわからないまま。また次に会った時に聞けるといいな。

 

私は春から、あなたじゃない人と生活を始めます。自分で決めたことだし、ずいぶん前からの計画だから、破るわけにはいかないんだ。それに、誰とどこで暮らしても結局私は私だから、何かが一気に変わることはないの。だから、だからこそ大丈夫なの。

 

あなたは春から、自分の夢を現実にする。楽しいことがあったら知らせて欲しいけど、それはきっとわがままなので、また機会があれば。

 

あああ、美しくおもしろおかしく暮らしたい。馬鹿みたいに笑って、馬鹿みたいにセックスして生きていきたい。美しい女の人と美しい肉体を重ねて、あたたかな日差しを浴びて、昼寝をしたい。ふかふかな枕を二人でわけあって、小さく微笑みながら眠りたい。庇護されていたい。本当は全部、死んだらいい。

ホテルの前まで来て「やっぱり無理」と断られた時のような

この何日間かは濃く、楽しいことといろいろな学びがあった。私はしつこいのがいけないところだと思う。

人は「また今度」「次回はぜひ」なんてことを言うけれど、その「次回」というのは基本的には無いものとして生きたほうがいいと、私は思っている。体調がよっぽど悪いとか、どうしても必要なものが捻出できないとか、それは仕方ないけど、チャンスはその都度つかみとりに行くべきだと思う。

人間はラブホテルに入る勇気が必要なのだ。「えいや!」と入る人間が私は好きだ。もちろん入ってから後悔することもあるかもしれないが、そしたらごめんなさいって相手に謝るまでだ。もしくは自分で抱えるか。その「えいや!」の精神を持たないと、大切なものを逃してしまうと思う。自分に資格がないことは諦めねばならないが、お膳立てがあるなら、最後までねばったら良いと思う。それは次への学びにもなる。

人はいつ死ぬかわからない。特に私は、いつまで生きてるかなんてわからないと思って生きている。人はいつだって死ねるが、いつまでも生きていられない。

私は掴み取れる人間でありたい。後悔しても、それを連れて進んでいくしかない。勝負に出ろ。勝負に出なければ、始まらないことがあるのだ。

あのブログ書いてたあの人、死んじゃったんだろうか。

すごく嬉しいことや美しいことがあると、「いや、この幸せやきらめきは一瞬で、一生は続かないんだ。その一瞬を抱きしめて暮らしても、その先にあるのは虚しさだけかもしれない」って誰かが(私が)ストップをかける。一生は続かないんだ。

だから、良いことが起きたって死にたい。

たまたま私はそういう気質に生まれて、薬でなんとかコントロールできてる部分もあるし、そうじゃない部分もある。落ち込んで、涙が出て、どうにもならない時もある。そんな時つい、どうして私がって思ってしまう。みんなはこんな気持ちになるのか?母親は?父親は?友達は?…もちろんそんな時間を味わう人もいるだろうけど、やっぱり大多数ではないと思う。どうして私はそういう風に生まれたんだろう。

どうしてを繰り返しても、解決にならないことは知ってる。意味付けをして楽になる場合もあるけど、私が求めてるのはそういうことじゃない。いつまでこれは続くんだろう。もしかしたら一生なんだろうか。そう思うとこわくて、自分の人生に一体どういう意味があるのか、爽快な気分になることなんてあるのかって考えてしまう。

あああ、涙も出ない。ただ意味がわからない。どうして毎日薬飲んで延命してんだ。

 

あのブログ書いてたあの人、死んじゃったんだろうか。

生きていかなきゃなんない、というのを、本当に、やっとわかりはじめた気がしている。

出会わなかった・結ばれなかった、っていうのは自分の人生の中で結構大きなキーになってるぽいぞと最近気づいた。

映画もそういう展開のほうが好きだし、「君の名は。」で二人が出会った瞬間醒めてしまったし、出会わない物語や結ばれない恋のほうが美しいって本気で思ってる。

でもそれは、相手と結ばれない未来をどこまでも自由に想像できるからだよね。無限大の未来。どこまでも幸せになれたかもしれないって、一生信じていられるもん。

だから、結ばれないことは美しくて、死はいつも魅力的だし、別れは詩になる。

でも私たちは地に足をつけて生きていかなきゃならない。これは本当に、ロマンチックじゃないよね。でも、美しくはあると思う。泥臭い、ひたむきな美しさ、みたいな。

生きていかなきゃなんない、というのを、本当に、やっとわかりはじめた気がしている。

 

だから、あの人に連絡しなくなったことも、消息がわからないことも、全部ロマンチックに思えて、時々ひっぱられそうになるけど、それは私を生活には結び付けないと思う。

さよならってちゃんと言えた試しがないのは、さよならって言えなかった人をいつまでも好きだからなんだろうね。

今年の抱負も「生きる」

生存している。

何かが堰を切ったように、映画や音楽に触れている。楽しい。この素晴らしき日々がずっと続いてほしい。

昨年あったこととかを、もうちょっと体力のある時に書きたいと思う。

昨年のキーワードは二つ。一つは「他者」。もう一つは「自分が自分であることをどのように証明するか」。

年末に「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」を見たので、私とは何か、私が私であるという保証はあるのか、ということについて考えていた。私が私であるためには何が必要なのか。

それ以来何にでも疑ってかかったり、考え込んだりして、作品のどんでん返しを見ても驚かなくなってしまった。どんでん返しのない作品は面白くないと思うようになってしまった。もっと肩の力を抜いて、批評的なところから離れて映画を見たいなあと思う。たまにはそうしないと疲れてしまう。

他者についてはいくつかの本を取り上げたいと思っている。小説から哲学まで。私には他者が必要で、他者のなき世界に私はない。私はそれをいつも心に刻みつけて生きている。私はだれかが、いや、あなたが、必要だ。