生きていかなきゃなんない、というのを、本当に、やっとわかりはじめた気がしている。

出会わなかった・結ばれなかった、っていうのは自分の人生の中で結構大きなキーになってるぽいぞと最近気づいた。

映画もそういう展開のほうが好きだし、「君の名は。」で二人が出会った瞬間醒めてしまったし、出会わない物語や結ばれない恋のほうが美しいって本気で思ってる。

でもそれは、相手と結ばれない未来をどこまでも自由に想像できるからだよね。無限大の未来。どこまでも幸せになれたかもしれないって、一生信じていられるもん。

だから、結ばれないことは美しくて、死はいつも魅力的だし、別れは詩になる。

でも私たちは地に足をつけて生きていかなきゃならない。これは本当に、ロマンチックじゃないよね。でも、美しくはあると思う。泥臭い、ひたむきな美しさ、みたいな。

生きていかなきゃなんない、というのを、本当に、やっとわかりはじめた気がしている。

 

だから、あの人に連絡しなくなったことも、消息がわからないことも、全部ロマンチックに思えて、時々ひっぱられそうになるけど、それは私を生活には結び付けないと思う。

さよならってちゃんと言えた試しがないのは、さよならって言えなかった人をいつまでも好きだからなんだろうね。

今年の抱負も「生きる」

生存している。

何かが堰を切ったように、映画や音楽に触れている。楽しい。この素晴らしき日々がずっと続いてほしい。

昨年あったこととかを、もうちょっと体力のある時に書きたいと思う。

昨年のキーワードは二つ。一つは「他者」。もう一つは「自分が自分であることをどのように証明するか」。

年末に「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」を見たので、私とは何か、私が私であるという保証はあるのか、ということについて考えていた。私が私であるためには何が必要なのか。

それ以来何にでも疑ってかかったり、考え込んだりして、作品のどんでん返しを見ても驚かなくなってしまった。どんでん返しのない作品は面白くないと思うようになってしまった。もっと肩の力を抜いて、批評的なところから離れて映画を見たいなあと思う。たまにはそうしないと疲れてしまう。

他者についてはいくつかの本を取り上げたいと思っている。小説から哲学まで。私には他者が必要で、他者のなき世界に私はない。私はそれをいつも心に刻みつけて生きている。私はだれかが、いや、あなたが、必要だ。

幸せは幸せしか生み出さない

最近ねこぢるにハマっている。ねこぢるウィキペディアを何回も読み返したり、彼女の旅行記を読んだり、彼女の友人が彼女について書いた文章を読んだり。

とここまで書いて気がついたが、私は「ねこぢる」という作品にハマっているのではなく、ねこぢるという女性に興味があるらしい。彼女の創り出したキャラクターが好きだというのもあるが、彼女の生前の身長と体重が昔の私のものに酷似しているのだ。さすがに今は太ってしまったが、勝手に親近感を覚えたのだ。

ねこぢるの生きた跡を何とか追いかけたい、とねこぢるグッズをさがしているのだがなかなかみつからない。

本棚の本を減らさねばいけないのに、なぜか増えまくっている。一冊読むと、それに関連するテーマとか作家とか読みたくて仕方なくなる。だから増えるのは必然なのだ。頭の中に全ての本をおさめておけたらいいのにな。

 

ああ、ただでいろいろなブログが読めるなんて本当にすごいな。どうか私の好きなブログが消えませんように。

珍しく気分の良い日が続いていて、次に来る不快に怯えながら生きている。

生き残っている意味をさがせ

どうにも気分が上がらない。

雑事は良い。いつもは面倒くさいのだが、洗濯やクリーニングなど、しなければならないことがあると、それに集中していられる。雑事にかまけて、一瞬憂鬱を忘れていられる。洗濯機を回せば回すだけ、洗濯は進んでいく。それは本当に心地の良いこと。

楽しいことも驚くようなこともたくさんあって、生きる糧みたいなものだって定期的に与えられているはずなのに、全然楽にはならない。気持ちは浮ついたまま、苦しいままで。

時々、苦しんでいる自分が好きなんじゃないかと考えることがある。悩むことはもはや趣味に近くて、私は自分をかわいそがってなぐさめることでしか生きていけないんじゃないかと。想像の世界に、あちらの世界に片足を突っ込んで生きてるんだろう。あちらには行きたくない。あちらは本当じゃない。あちらは本意じゃない。じゃあこちらは?

適応出来る人間になりたい。適応できないから文章やら何やらがうまれるというのはあると思う。けれど、何もうまない生き方が、もし、私の妄想している平常な精神、普通の心を持てる生き方なら、いったい私はどちらを選ぶだろう。

死ぬほど安寧が欲しい。安息が欲しい。息しなくて良いようになれば、もう何も考えなくて良い。答えは出ている。

坂元裕二が物語を作らない世界は満たされているのか、満たされていれば幸せなのか

今日はプレゼントなどを求めて、同じところをぐるぐるぐるぐるした。他の人に差をつける!私の愛が一番大きいことを示すのだ!と意気込んで、祝儀袋を買った。たぶん、いや、絶対届かないけど。妊婦さんを見て、彼女が妊娠しているところを想像して苦しくなった。これは恋なんかじゃない。もっと汚い思いだ。

 

年上の男性から思いを吐露されるのは嫌いだと思っていたけど、いつもきちんとしている人の口から語られるそれは悪くないものだと感じた。もう潮時かもしれない。

 

うーん。いろんなことをしすぎたせいかちょっとハイになっているらしい。何かが変わり始めているのを感じる。それは私の中で起こっている。お金を貯めろ、お金を使え、そして人と話して、見て聴いて嗅いで、書け。全部書け。もうそれで、しばらくはそれで。

 

人間関係はおおむねうまくいっている。昔はもっと苦しんでいたのに。人と深く関わらなくなったからだろうか。それとも、年齢と共に楽になってくるというのが人生なのだろうか。私の能力も少しは上がっているといいな。

 

ああ、こういう穏やかな気持ちだけでずっと生きていけたら。

いや、私は満たされないからこそ生きているのかもしれない。

 

私は坂元裕二の書く物語が好きなのだけど、坂元裕二が物語を作らない世界ってたぶん満たされてるよね。でも満たされてることと幸せってイコールなのかな。幸せになりたいって漠然と思うことがあるけど、じゃあ満たされたら、私が生きてる証ってどこにあるんだろう。痛みって生きてる証拠で、もっと健全な形で生きてることを感じられたらそれが一番いいのかもしれないけど、いまはこれがせいいっぱい。

満たされること、幸せになること、生きること。似ているけど、全部違うんだな、全部のこともっと考えなきゃいけないなと思った。私は真理に辿り着かなきゃいけない。そのために、考えることをやめてはいけない。

そしていつか、胸を張ってあなたに会う。