無性に破滅したい夜に君のことばかり考えて父と兄と恋人のぜんぶをこなしてほしい

眠れない。調子がいい時っていうのはたいてい落とし穴の前を歩いているようなときで、私は気づかずに笑いながら、ゆっくりとその地面を踏み抜く。その後のことはもうわからない。真っ暗な場所で、泣いてみたりぼーっとしてみたりする。

君はどこにいるんだろうか。

君って一体どの君なんだろうか。

私はいつでも一発逆転を狙っている気がする。私を愛して、同時に自由と安心をくれる人が現れて、二人で幸福に暮らせることを夢見ている。いつかそんな日が来るんじゃないかと思っている。

無性に破滅したい夜。肉欲に溺れて、今までのことを一晩で台無しにしてしまいたい。

ああ、私はトリップしている。

 

君はどこだ。

最近は君のことばかり考えて夜を過ごしているよ。光熱費とか食費とか気にせず暮らしていけたらいいのにな。心配ないよって笑いかけてくれる人がいたらいいのにな。

お父さんとお兄ちゃんと恋人、ぜんぶほしい。おねがい。

自分には何にもないような気がして悲しくなる。誰かの声が聞きたい。でもそれは誰の声でもないような気もする。究極しにたいんだよ。

何も思いつかない。悲しい想像ばかりふくらむ。ここには最低限のものがあって、私は愛されてるはずなのに、一個が上手くいかないだけで駄々こねて、焦って、もうどうしようもないような気がしてくる。助けてくれって言う人もいないよ。みんな孤独な夜をどう過ごしてるんだ。みんなこんな日をどう過ごしてるんだよ。ねえ。

東京九段下の武道館までジャンプして、「日本の銀杏好きの集まり」をみてきた。

みてきたんです。大切なことも放って、飛行機乗って、みてきました。

その日は朝から雨で、ついてないなって思ったけど、13日の金曜日だし、なんか逆境があったほうが銀杏BOYZっぽいななんて思いながら、替えの靴下をビニールに包んでバッグに忍ばせて出かけました。物販が気に入らなかったときのために(結局買ったけど)洋服の下に世界平和祈願ツアーの時のTシャツ着て、行きました。池松壮亮も見に来てんのかな、九段下の駅から武道館って遠いのかなとか考えながら電車に乗りました。

駅で、今日一緒に行く女の子と無事に会えて、傘を差しながらぽつぽつと歩きました。神保町ってご飯屋さん多そうだねって言いながら、カレー屋と中華料理屋ばかりで、やっと見つけた地下1階にある定食屋さんに入ってお腹を満たし、その後また別の地下1階にある喫茶店に入って、お茶を飲みました。緊張する、私たちライブに出るわけでもないのに、と笑いながら、ゆっくりお茶なんてできなくて、結局予定よりも早く武道館に向かいました。

物販の列はとてつもなく長くて、彼女としゃべりながら、列は進んだり停滞したりを繰り返していました。カラスが鳴いているのを見つけて、カラスが道路の上を行ったり来たりしていた日のことを彼女に話しました。轢かれるよ、危ないよと思っていたら、銀杏の実を車に潰させていたんだよ、頭いいねって言い合っていたら音楽が流れ始めて、すわリハーサルか!?と思ったら、5時を知らせる夕焼け小焼けでした。なんだーと思っていると、ギターの音!ドラムの音ははじめ雷かと思ったけど、やっぱり演奏で、リハだったから音楽が流れたのは数十秒だったけど、涙が出そうになりました。物販に並んでる人を見て、峯田がこんなにたくさんの人を魅了しているってことがすごいと思いました。峯田、お前のために1万人以上が集まるんだぜ、いまここに並んでる人はみんな銀杏のグッズが欲しくてここにいるんだぜ、これってすげーよ。

物販買えたあとは席まで行って、斉藤由貴の「卒業」とか森高千里とか風の谷のナウシカとか流れてるのを、なんだよこの選曲って笑いながら、峯田を待ちました。

峯田が出てきた時のことはもうあんまり覚えてなくて、平和祈願ツアーのときとおんなじようなモッズコートだな、とか。あ、その前にファンのコメントで号泣して。でも峯田のおかげで生きてるやつがいるんだよな。いろいろ思って、肩が震えるほど泣きました。

そしたら峯田のエンジェルベイビーが始まった。新曲に優劣つけられないけど、これは新曲の中でも歌詞が一番好きで「どうして僕いつもひとりなんだろ ここじゃないどこかへ行きたかった」っていう出だしでまた泣いた。峯田は演奏終わったあとも会場を見て、うなずいて、また見て、うなずいて「そこにいるんだろ!そこにいるんだろ!そこにいるんだろ!」って何回も繰り返してて、峯田は確かに大勢の前で演奏してるのに、1対1で話しかけられてるような気がした。ずっと、ライブ終わるまでも終わったあとも、そうだった。峯田とわかりあえたみたいな錯覚がずっとある。

ライブが始まる前、女の子と「なんの曲一番やってほしいか」って話をした。いろいろあるけど「駆け抜けて性春」かなと彼女は言った。すぐさま同意した。前回のツアーでやらなかったからだ。あれ聞いたら、なんか明日からもまたやっていけそうな気がした。

怒涛の勢いでいろんな曲歌って、拳上げたり、手叩いたりして、ライブは終わった。峯田のMCはどれも良くて「生まれてきて良かったと思った日はいっぺんもない。でも生きてて良かったって思えたことは何度かある。今日みたいな日です」って言ってて、泣いた。自分みたいな人間は結局満足することはないんだと思う、持ってる人だから満足できるわけじゃないみたいなことも、すごく共感できた。

恋人いてもお金持ちでも人気があっても子どもが居ても、満足できない人間は居て、それはもう仕方なくてどうしようもなくて、持ってるからって幸せって思われたらたまんねえよなって思った。持ってるのに満たされないなんて馬鹿げてるとか甘えてるって思われるかもしれないけど、でも確かにつらいんだ。いつもどこか行きたくて、ロックも全部救ってくれるわけなくて、どっかでずっとひとりで、でもいますぐやめようって気は、ないんだ。やめたいと思うことはあっても。

 

ライブ終わって満身創痍で、駅までの道をほとんど無言で歩いた。ふらふらしながら、何にも言えなかった。女の子が「明日から生きていくのつらくなりそう」って呟いて、上手い返しもなかった。でも今日一緒に来られて良かったって言った。

帰り道、「東京」の弾き語りしてる人がいて、前のメンバーについて熱く語ってる男の子たちがいて、セトリに文句言ってる女の子たちもいて、私たちはやっぱり無言で、駅を目指した。またねと言って別れた。

 

いま会場で配ってた新聞に峯田の「555問555答」が載ってたので読んでるんだけど、「音楽が世に与える影響とは?」

「たいしたものじゃないと思います」

って峯田が答えていて、また泣きそうになってる。世の中を変えるとか大それたことじゃなくて、となりにいる人を元気にするような気持ちで音楽やってる人って、なんか信用できるじゃん。音楽で世界征服目指してるのも超かっこいいけど、銀杏の音楽は友達みたいなさ。

40歳になっても「恋は永遠 愛はひとつ」なんて歌ってまったく!まったく違和感のない峯田にただただすげーって思うばっかりで、ライブの感想うまくまとまらないな。2000字とか書いてるのに何にも伝えられないな。

あのライブが良かったとか悪かったとか、そういうことじゃなくて、たぶんこの文章はもっとドライに銀杏BOYZを見てる人からは気持ち悪くて、ファンじゃない人からは冷ややかな目で見られるんだろうな。

朝恥ずかしくなるいつものやつだとしても、まあ書いて良かったな。私も生まれてきて良かった日をいきなり目指さないで、生きてて良かった日をさがしていこう。悪い予感のかけらもないね、まじで。みんな死ねって言われてなんか良かったよ。死ってこわくない気がした。

大学生こええ 若い女の人がこええ

着飾っている若い女の人がこわい

同年代のおしゃれな女の人がこわい

声の大きい男子大学生がこわい

ヴィトンのストールを羽織ってお昼を食べに出かける丸の内のOLがこわい

人前で過剰にいちゃつけるカップルがこわい

人前で子どもを大きな声で注意する母親がこわい

心配したんだぞと言いながら娘の頭をはたく父親がこわい

何もかもを見透かしたような先生がこわい

クラクションがこわい

幸せがこわい

安定のあとの不安定がこわい

想像がこわい

こわいものばっかり並べてる自分がこわい

楽しい出来事がこわい

楽しむことがこわい

明日のことがこわい

カフェオレの味だけが確かなこと

十六夜

私も誰かのブログを読んでいつも励まされている。ああ、生きてる人いるじゃん、苦しんでる人いるじゃんってちょっとほっとする。と同時に、いつこのブログが消えるかわからないって恐怖を覚える。いきなり読めなくなったら嫌だな、更新止まったらつらいなって思う。

二年位更新の止まってるブログがある。すごく好きなブログだったから復活を待ち望んでいる。死についてよく書いている人だったから、もう一生戻ってこないかもって考えると悲しくなる。自分もそうなるのかな、と考える。生還してほしい。

他人には生きることの大切さを説くことができる。「死ぬとか言うのやめてよ」と憤る。自分には、そんな感情の否定はしない。いつも死にたい気持ちを肯定する。未遂をしたことがないのは、恐怖もあるだろうが、まだどん底まで行っていないって思うからだ。食べられなくなったら死のうって思っているんだろう。自分を大事にしてくれる人が死ぬまでは、生きなきゃいけない気がする。でも両親の死を待つのは長すぎるとも思う。

学校に行く時、このまま失踪したいと考える。学校で先生としゃべる頃にはそんな気持ちも萎えている。いつも通り帰路に着き、明日着ていく服を考えている。

どうなるんだろうな。想像はいつも、失敗や恐怖の中で立ち止まる。自分や近しい人間が死ぬところを思い浮かべてみるが、今よりマシになる気がして、希望すらある。

セックスの後に泣く女を抱きたくない。セックスの最中に気持ちいい以外のことの考える女と一緒に居たくない。泣いたあとはさっきまでのことが嘘のように笑っている情緒不安定な女は嫌いだ。精神が安定している女としか付き合いたくない。なんで延命治療してるんだ私は。全部変だ。

ツイッターは止まっている。情報の多いものに疲れてしまった。最近はなぜか寝付きが良い。一生これが続くと良いのにな。ラジオ深夜便ばかり聞いている。もっと書きたいことがある気がするのに、私の中には特になにもないのだ。

また居もしない子どものことを考えている

自分は赤ん坊をかわいいと思える人間だと思っていた。でもどちらかといえば胎児のほうが好きだということに気づいた。母親に許可を得てお腹を触らせてもらうと、温かくて、涙が出て来る。生命の神秘ってやつだ、尊いものだ。出てきたあともそれなりに可愛い。母親が頑張って産んだんだ。可愛い。大事にしなきゃいけないものだ。

家に赤ん坊が遊びに来て、私は喜ばせようとお菓子をプレゼントしたり、ぬいぐるみを手当たり次第に出したり、絵本を引っ張り出したりした。でも読み聞かせはしなかったし、赤ん坊が帰ったあと、絵本を全部ウェットティッシュで拭いた。

可愛いとか、喜んでほしいとか感じているつもりだったが、それは全部恐怖に近いものだったのかもしれない。私は赤ん坊が泣いているのがこわい。嫌だ。

可愛がっているわけじゃなくて、何とか泣かせないように必死だっただけかもしれない。

子どもとの接し方がわからない。何を話したら良いかわからない。つまらないやつと思われるのがこわい。嫌われるのがこわい。だから可愛いと思って、好きだと思いこんでいるのか?

赤ん坊が泣くのは嫌だ。大きい声。どうして泣くんだろう。

私は自分が泣いているのも嫌いだ。どうしてしょっちゅう泣くんだ。私は子どもみたいだ。早く泣き止んでほしい。自分の中にいくつもの自分がいるのは当たり前のことだ。私は私の子どもの部分がどうしても許せないと同時に、甘やかしてほしい。もしかして、自由に泣いている子どもがうらやましいのか?

子どもと暮らしている自分が想像できない。私が子どもなのに子どもなんか育てられるわけないだろ。彼は子どももいずれは欲しくなるかもしれないという。自分は機能不全家庭で育ったのになぜ希望を持てるんだろう。子どもの顔を見せて親孝行したいとか言う。なんでいまさら親を大事にしようとするんだ。そのために子どもを使うな。私は無理。私のところに産まれる子はかわいそう。でも彼のことは好きだ。でも誰の子どもだとしても、産みたくないんだ。少なくとも今は。絶対に。

「私も同じ考えだったけど、産んでみたら可愛くて仕方がないですよ。今二歳です。二人目も考えています」。

そうか。私は今日も子どもを産まない人生について考える。子どもが欲しくないと言い放った男の人のことを考える。子どものことが考えられないと言った女の人には出会えたことがない。赤ちゃんを抱かされても、早く離したいという思いでいっぱいになる。

私の腹、一生からっぽであってほしい。