気持ちのガサガサ

今日は気持ちのガサガサみたいなものがない。

早く春になってほしい。そしたら貯金をおろして、ひらひらした全然あたたかくない薄い洋服を何枚も買って、足を出して、かわいいパンプスやバレエシューズを履きたい。スカートをひるがえしながら、大好きなひとのところへ向かいたい。

 

私の好きなひとは誰だろうか。いや、定まってはいるのだけど、範囲が広すぎるのだ。気が多いと言うのだろうか。

私は、女友達でも男友達でも先生でも後輩でも先輩でも恋人でも、とにかくいろんな人が好きで、いろんな人と笑いあいたい。一緒にいたい。本当は見返りを求めずに、相手に尽くしたい。いろんな人とご飯を食べに行って、少しはお酒も飲んで、そのスカートの柄とても素敵だね、先輩は手が綺麗ですね、先生は学生時代にどんな恋をしていましたか、なんて会話をしたい。たくさんの人とお手合わせ願いたいのだ。たくさんの人に出会いたいのだ。

私は寂しいんだろうか?だから人に飢えているのだろうか。それだけなのかもしれない。ただそれだけで、人を振り回そうとしているのかもしれない。

 

それでも、生きてゆく」を5話まで見終わる。音楽に感動して、弟に同情して、おばあちゃんに会いたくなる。

少女革命ウテナ」を見て、「「わたしがいないとあの人だめ」は、「あの人がいないとわたしだめ」ですよね」というようなセリフを思い出す。本当に必要としているのは、自分の存在価値なのかもしれない。存在価値がみんなに配られるといいのだろうか。名札とかに「存在価値:生きてること」とか書いてあるといいのかな。そしたらもっと生きやすかったかなあ。

自分の存在とか死について考えることは最近ずいぶん減ったけど、苦しくなる瞬間はまだたくさんある。どうして苦しくなるのかわからないから、もっと苦しくなる。きっと暇だからいけないのだ、と考えてみても、忙しい時は死にたくなるし、結局どうしたらいいのかはわからない。騙し騙し、進んでいくしかないのかもしれない。

「みんなはどうしてますか?」って聞きたい気もするけど、感じ方には違いがあるから、「え、何その感情」って言われることがこわい。そんなこわい思いをするなら孤独に耐えていたほうがマシかもしれないと思う。

でも耐えられないから、人は本を読むし音楽を聴くしインターネットをするし文章を書くんだろう。そうやって自分を延命させている。

悲しいことはほこりのように積もっていくから、幸せの基礎が必要だ

三日くらい、全然遊ばずにぼーっとテレビとインターネットばかり見ている。なんでこんなに疲れているんだろう、ウツか?と思っていたけれど、考えてみたら二月と三月で四回も、泊まりで県外に行っている。そりゃ疲れるよね。

行った先ではどこでもそれなりの思い出ができて、楽しい事もつまらない事もあった。「あーなんで自分ってこんなにコミュニケーションが苦手なんだろう」とか「ああ、勇気出して言えば良かった」とか後悔もいっぱいだ。でも、私の中に記憶が積もっていくのは嬉しいことだ。生きてるって感じだ。

生きてることを感じられるのは嬉しい。いつもはより死に近いところにいる気がするから。旅行で新しいものを目にして、そこでの空気を吸っていると生に近いような気がする。いきいきできているような気がする。

 

本棚の横でこれを書いているんだけど、少しすっきりした本棚を眺めていると嬉しい気持ちになってくる。できる時で良いから掃除、頑張ろう。

嬉しいことを積み重ねて、人は生きていくんだな。悲しいことは放っておいてもそこかしこに、ほこりのように溜まっていくから、意識的に嬉しいことを積み重ねなければいけない。そして、積み重ねた先から壊れていく嬉しさもあるし、長い間とどまり続ける幸せもある。基盤になるような幸せが欲しい。私の基礎となる幸せが。

気付いたらもうとっくにここにあったのにねっていう幸せが。

部屋の掃除と私はここにいるということ

部屋の掃除をした。

もともとそんなに汚い部屋でもなくて、パソコンとテレビとベッドとクローゼットと本棚があるだけだ。でも、本棚を少し整理しただけなのにゴミ袋ひとつぶんのいらない物が出た。

昔好きだったアニメのグッズなんかも結構大胆に捨ててしまえるタイプなんだけど、本はだめだ。これはあの時に読んで励まされたなあとか、これはここのセリフが良すぎるんだよなあと思いだして、処分できない。結局少し並べ替えただけだ。

あ、でも日記を処分した。私は5年以上日記をつけていたのだが、おととしと去年の分を残して処分した。あまり思い出したくないこととか、当時の自分の最悪な精神状態ばかり記してあったからだ。

おととしくらいまでは、体調が悪くなると昔の日記をひっぱりだしてきて、「あ、この時も私体調悪くなってるな」と安心(?)していた。だが最近は、あんまり体調に一喜一憂しないように心がけているし、体調が悪いのもほぼ一年通してのことなのでもう気にしないことにした。一年のうち一日でも、いや、半日でも幸せな時間があればそれで良いとしよう。あんまりこだわりすぎるとロクなことにならない。

日記と一緒に手帳も処分した。昔大事にしていたぬいぐるみも。両親からもらったものだから、二人への決別もあるのかもしれない。二人の存在が重いというのとは少しちがうけれど、もう昔の事を思い出しても仕方ないし、帰ってこない日々が確かにそこにあるし、私の未来にその二人はいない。別々の個体として存在しているのだ。引き裂かれるような思いをした幼い私も一緒に捨てることができたならいいんだけど。いや、捨てちゃだめなのか。許したり忘れたりしなきゃいけないのかな。わからない。今の私にはこれがせいいっぱい。

物を片付けているとゆううつがひどい時は、「あれ、もうなんにも必要なものなんかないじゃん。私いらないじゃん」という気分になるのだが、今回は本への執着もあったし、そんな気分にはならなかった。良かった。

自分こそ必要ないのではという思いに至ることほど虚しいこともない。自分の軸がブレブレだ。私はここにいるんだから、私は私をやっていくしかない。

不器用な人が好き

不器用な人が好きだと思ってきたけれど、本当は女神になりたいだけかもしれない。その人にとって特別な存在になって、依存されたいだけかもしれない。

自立した関係、というのはどういうものだろう。お互いに稼いでいて、お互いに家事が出来て、自分のことがきちんと出来る人同士しか自立した関係とは呼べないのだろうか。守ってもらって、それでも対等を求めるのはわがままなのだろうか。

よくわからない、理解できない人が好き。でもそれって、あの人を理解できるのは私だけなのよって言いたいだけなのかもしれない。

自分の好意がこわい。私はどうしてあの人を好きなんだろうか。

何を言わないかというのも大事

歯医者さんで「ちゃん付け」をされて嬉しかった。カルテを見てないのか見ていたうえでそう呼んでいるのかわからないが、近頃は「ちゃん付け」なんてあんまりされないからとても嬉しい。

もちろん「狼ちゃん」と呼んでくれる人もいるんだけれど、それは「狼ちゃん」というひとくくりで呼ばれている気がする。歯医者のお姉さんの呼び方は「狼」+「ちゃん」なのだ。

 

春休みだからというのもあるが、随分落ち着いている。苦しくなったときはなるべく何もせずに寝て、その後は手を動かしたり身体を動かしたりする。家事が一番良い。洗濯物を干したり料理を作ったり。

それから、自分を責めないこと。これが大事だ。なるべく自分のできたことを数えたほうが良い。とかく人間というものは幸福より不幸の数を数えたがる生き物だ、というようなことが地下室の手記にも書いてあった。その通りだと思う。

 

何でもかんでも人に相談しなくなったし、話さなくなった。抑制するということを少しだけ覚えた気がする。何を言うかも大事だが、何を言わないかというのもとても大事なことだ。言いたいことのなかでも、それは心にしまっておいたほうが良いよというたぐいのものは、いくつもある。

 

お金を遣いすぎている気がするが、若いうちにいろんな経験したほうがいいじゃん!と自分を納得させている。かわいいピンバッヂも、洋服も、カバンも靴も、今しか身につけられないものがある。ミニスカートとか、ノースリーブとか。もちろん60歳になったって身につけてもいいんだけど、その時の私がどう思うか、身につけたいかなんてわからないから。貯金もほどほどにして今を楽しみたい。そうしようよ、ね?

 

人を好きになることは決していけないことなんかじゃない。けれど、胸の中にしまっておいたほうが良い恋心もある。誰かを傷つけるなら、隠すことや離れることを選んだほうが良い場合もあるのだ。