部屋の掃除と私はここにいるということ

部屋の掃除をした。

もともとそんなに汚い部屋でもなくて、パソコンとテレビとベッドとクローゼットと本棚があるだけだ。でも、本棚を少し整理しただけなのにゴミ袋ひとつぶんのいらない物が出た。

昔好きだったアニメのグッズなんかも結構大胆に捨ててしまえるタイプなんだけど、本はだめだ。これはあの時に読んで励まされたなあとか、これはここのセリフが良すぎるんだよなあと思いだして、処分できない。結局少し並べ替えただけだ。

あ、でも日記を処分した。私は5年以上日記をつけていたのだが、おととしと去年の分を残して処分した。あまり思い出したくないこととか、当時の自分の最悪な精神状態ばかり記してあったからだ。

おととしくらいまでは、体調が悪くなると昔の日記をひっぱりだしてきて、「あ、この時も私体調悪くなってるな」と安心(?)していた。だが最近は、あんまり体調に一喜一憂しないように心がけているし、体調が悪いのもほぼ一年通してのことなのでもう気にしないことにした。一年のうち一日でも、いや、半日でも幸せな時間があればそれで良いとしよう。あんまりこだわりすぎるとロクなことにならない。

日記と一緒に手帳も処分した。昔大事にしていたぬいぐるみも。両親からもらったものだから、二人への決別もあるのかもしれない。二人の存在が重いというのとは少しちがうけれど、もう昔の事を思い出しても仕方ないし、帰ってこない日々が確かにそこにあるし、私の未来にその二人はいない。別々の個体として存在しているのだ。引き裂かれるような思いをした幼い私も一緒に捨てることができたならいいんだけど。いや、捨てちゃだめなのか。許したり忘れたりしなきゃいけないのかな。わからない。今の私にはこれがせいいっぱい。

物を片付けているとゆううつがひどい時は、「あれ、もうなんにも必要なものなんかないじゃん。私いらないじゃん」という気分になるのだが、今回は本への執着もあったし、そんな気分にはならなかった。良かった。

自分こそ必要ないのではという思いに至ることほど虚しいこともない。自分の軸がブレブレだ。私はここにいるんだから、私は私をやっていくしかない。

不器用な人が好き

不器用な人が好きだと思ってきたけれど、本当は女神になりたいだけかもしれない。その人にとって特別な存在になって、依存されたいだけかもしれない。

自立した関係、というのはどういうものだろう。お互いに稼いでいて、お互いに家事が出来て、自分のことがきちんと出来る人同士しか自立した関係とは呼べないのだろうか。守ってもらって、それでも対等を求めるのはわがままなのだろうか。

よくわからない、理解できない人が好き。でもそれって、あの人を理解できるのは私だけなのよって言いたいだけなのかもしれない。

自分の好意がこわい。私はどうしてあの人を好きなんだろうか。

何を言わないかというのも大事

歯医者さんで「ちゃん付け」をされて嬉しかった。カルテを見てないのか見ていたうえでそう呼んでいるのかわからないが、近頃は「ちゃん付け」なんてあんまりされないからとても嬉しい。

もちろん「狼ちゃん」と呼んでくれる人もいるんだけれど、それは「狼ちゃん」というひとくくりで呼ばれている気がする。歯医者のお姉さんの呼び方は「狼」+「ちゃん」なのだ。

 

春休みだからというのもあるが、随分落ち着いている。苦しくなったときはなるべく何もせずに寝て、その後は手を動かしたり身体を動かしたりする。家事が一番良い。洗濯物を干したり料理を作ったり。

それから、自分を責めないこと。これが大事だ。なるべく自分のできたことを数えたほうが良い。とかく人間というものは幸福より不幸の数を数えたがる生き物だ、というようなことが地下室の手記にも書いてあった。その通りだと思う。

 

何でもかんでも人に相談しなくなったし、話さなくなった。抑制するということを少しだけ覚えた気がする。何を言うかも大事だが、何を言わないかというのもとても大事なことだ。言いたいことのなかでも、それは心にしまっておいたほうが良いよというたぐいのものは、いくつもある。

 

お金を遣いすぎている気がするが、若いうちにいろんな経験したほうがいいじゃん!と自分を納得させている。かわいいピンバッヂも、洋服も、カバンも靴も、今しか身につけられないものがある。ミニスカートとか、ノースリーブとか。もちろん60歳になったって身につけてもいいんだけど、その時の私がどう思うか、身につけたいかなんてわからないから。貯金もほどほどにして今を楽しみたい。そうしようよ、ね?

 

人を好きになることは決していけないことなんかじゃない。けれど、胸の中にしまっておいたほうが良い恋心もある。誰かを傷つけるなら、隠すことや離れることを選んだほうが良い場合もあるのだ。

旅行に行くということは現在自分が住んでいる場所に関することをはっきりさせる効果があると思う。家の良さを再認識したり、旅行先も意外と良いなと思ったり。

あとは、荷造りの際に手持ちの服を確認できるし、旅行に行くんだから髪の毛を切っておこうとか洗濯をしておこうとか、色々なことに対する意欲がわく。立つ鳥跡を濁さず。あ、向田邦子は縁起にこだわって旅行前は掃除をしなかったらしい。そういうことにこだわっていた人がああいうことになったのはなんだかとても切ない。

知らない人と話すことは現在の自分の立ち位置をはっきりさせる。

私は学生です、何歳です、今は春休みで今度旅行に行きます、旅行はどこどこに行って、というのも私はアレがとても好きなのでそれを見に行くのです、それつながりで大学はそういう関係の学科に通ってるんです…って自己紹介によって自分のことを再確認する。自分って何にもないな、とか思う。中途半端のほうがまだ良い、中途すらいってない。途中にすら至ってないなって悲しくなる。

明日は薬をもらいに行かなければいけない。毎月毎月きちんと飲んでいたのに、もらいに行くのを忘れていた。私は薬によって保たれているのに。自分を責めるけど起きてしまったことは仕方がない。自分の体と先生に謝りつつ、明日無事薬がもらえることを祈る。

 

今朝はとてもこわい夢を見たのだ。久しぶりのこわい夢。しかも私の夢は妙に現実感があって、何かが追ってくるとか抽象的なものではなく、誰かとの間にトラブルが起きるというものが多い。トラブルの原因はたいてい私だ。夢でよかったなと思いながらも、こわい夢を見た日は一日中それを引きずってしまう。

今日はどうかこわい夢を見ませんように。素敵な夢じゃなくてもいいから、こわい夢はやめて下さい。良い夢見させてくれなんて言わないから。

涙は麻薬だ

とにかく金を使う。ないのに使う。

服はあるのに何を着ていいかわからないし全部ださく思えるけど買った時は良いと思っていたのだ。でも、今着ると本当に自分が垢抜けていないことが気持ち悪くてつらくなる。

金が欲しい。お金がたくさんあれば、私は好きなものを買ってやりたくないことはやらずに過ごすだろう。でもこのタラレバみたいなことをやっていても事態は一向に良くならないし、私の精神的問題が本当にお金があれば解決することなのかどうかは誰にもわからないのだ。

みんなが自分の時間をきちんと生きてるのに、私だけ違うような気がしてくる。

お金を稼ぐためにいろいろなことをして、そのストレスで散在してプラマイゼロ。意味無いじゃないか。

 

楽しい事を書きたい。もちろん嬉しい気持ちになることはあるけれど、何々を買ったとか夕飯が好きなメニューだったとか、そういうことじゃなくて、心からの喜びみたいなものが生活に足りていない。何をぜいたく言ってるんだと自分でも思うが、泣きたくなるほどの感動がない。誰かにしがみつきながら大声で泣きたい。涙は麻薬だ。

 

お金を遣ったあと、常に罪悪感に悩まされる。解放されたい。お金の使い方がうまくなればいいのに。自分を幸せにすることに慣れていないのか?慣れていくしかない。私は私を大切にしなければいけないし、そのためにお金はある。減っていく残高のことは、元気になってから考えよう。大丈夫。私は私であり続ける。それをやめようとしない限り。