おおきくなりたくありません

すきなものはたくさんあります。苦手なものはこころのほつれ。

「天井」の話

ぐだぐた考える。

「天井」の話なんです。

「憂鬱だった いつも目覚めると同じ天井があって

現実だって思い知らされる ここには出口がない」逆光/坂本真綾

という歌詞を見まして。で、私がパジャマにしてるTシャツには

「見知らぬ、天井」

と書いてある。

2019年リリースの「逆光」はFGOというゲームでありアニメの主題歌みたいなんですが、Wikipedia見てもちょっと話が複雑でそれ以上はよくわかんなかったです。すみません。

で、1995年のエヴァ。シンジくんが目覚めると知らないところにいて、目の前には知らない天井。どうも自分の部屋じゃない。それは日常の続きじゃない。

 

言ってることがかなり真逆に近いのかな、と。

いや、FGOは掴みたくても掴めないものをどうにかしようとしているようにその後の歌詞から読み取れるんですが、シンジくんは見知った天井のほうがいいんですよね。ずっと翻弄されているから。

明日どうなるかわからない、だから知らない天井はこわい。

同じ天井から抜け出したい、だって出口がないから。

天井というのはまあ景色とも置き換えられると思うんですが、突破口が欲しいんです。でもシンジくんは変わっていくことに恐怖を覚えている。

でもエヴァやらlainやらAKIRAやら、僕は昔のアニメを見てるわけでなんか全然変われてなくて、シンジくんの頃から進んでないんです。FGOが若者向けに作られた歌詞だっていうのもあるかもしれないけど、少なくとも僕は変われていないし、見知らぬ天井だけどその先に出口があるのかわからなくて、知っている天井を見て出口がないことを思い知る。

「天井」というキーワードだけでずいぶんこじつけて書いたけれども、私のメンタリティはやっぱりシンジくんのままで、変わってほしいとかあんまり思っていない。同じ天井でも別にいい。

ただ「希望は戦争」というように、ある日突然自分にも美しい力が目覚めて、誰かが私を引っ張り上げるのを待っている。ぞういう側面もあるんです。ただ、それはちっぽけな変化なんかじゃなくて、世界がまるっきり変わるような大きな大きな変化です。

それはたぶん自分が消えることと同じくらいの大きさのことです。

「運命の人なんかいない」ということ

理想の人と出会うということについて

 

私は本、映画、音楽、アニメ、エロゲなどなど好きなものを追求するタイプのオタクだ。

立川にガルパンの映画あれば行って極爆上映を観て、三鷹に太宰の墓があると知れば玉川上水に沿って歩き、椎名林檎のライブがあれば神戸や大阪に遠征し、好きなアニメの二期の監督が違えど文句を言いつつ最後まで観る。そういうオタクだ。

で、それとちょっと通ずることで最近気づいたことがある。「運命の人なんかいない」ということだ。いや、2%くらいはいるのかもしれない。この人が運命の人!って思って幸せに暮らしている人が世の中に少しはいるはず。だが、自分にはきっとそんな出会いは無いと思っている。

私にもいつか白馬の王子様とは言わないまでも、多少の欠点は見逃してくれるような私にはもったいないわというような人が現れる…とはあまり思っていなかったが、友人に関しては違った。気の合う友人、師のような友人、メンター、人生を変えてくれる人、引っ張り上げてくれるような人が現れると思っていた。いや、もちろん何人かはすごく好きな人とも出会えた。でもそうじゃなくて、私の欠けている部分にぴったり合うような、相手の全部を好きになって憧れることのできる素敵な女友達が現れないかななんて考えていたのだ。でもそれはちょっと歪んだ考え方だったと思う。なぜなら人間関係は育てていくものだからだ。

アニメや本や映画だって全部を好きになるわけじゃない。絵が綺麗で題材がいいとか、ストーリーと俳優がいいとか、この曲のこの歌詞がいいとか、全部を全部100%好きなわけじゃない。なんだよこれ!って言いたくなるような作品にだってたくさん出会ってきた。その中で自分のとっておきのお気に入りが増えていくのが楽しいのだ。何にも代えがたい幸せなのだ。

人間関係だって本当は同じなのだと思う。全部を好きになるわけじゃなくて、この人の喋り方が好きとか、この部分の趣味は合うなあとか。で、そういう人に出会うためには映画などと同じくある程度の数を重ねなければならないのではないか。より多くの人に出会う必要があるのではないか。

自分の欠けたところにぴったり合う人なんてなかなかいない。多くの人間関係はこつこつ育てていくもので、その中でこの人と一緒にやっていけそうだという人と友達や恋人になるのだろう。

私は全く浅はかだった。他のことなら数をある程度こなし、自分の審美眼を磨こうと思える。普段は気にならないものでも、その時の自分の精神状態と作品がリンクして好きになるということだってままあることだ。

なのに、人間に関してはなぜか運命というものを信じ切って、信頼しきっていた。

ちょっと気づくのが遅かったかもしれないけど、人と合わないなんて当たり前のことだ。だから自分を責める必要はない。長澤まさみからDMが来てヴィレヴァンの前で会うとか、そういう幻想は捨てよう…

と言いつつ、メールボックスとかこまめに確認してしまうのであった。早く解脱したい!

エロゲとの思い出

こんなブログでも読んでくれる人、スターをくれる人がいるもので…いつもお世話になっております。

昔はカウンターが3とか4とかだったのが、20とかまわる日もあって。どうもエロゲの感想書いた記事が良かったみたいだ。今度気力があったら他のエロゲについても書きたいなあと思っている。

 

学生時代はエロゲを結構やったほうだと思う(他の娯楽に比べて時間を割いた)。名作と呼ばれるやつ、鬱ゲー、純粋な抜きゲー…お金があるわけではないので、いくつも体験版をやったり、中古を漁ったり。鬱ゲーをプレイしたはいいもののシステム面が良くなくてお目当てのエンドに辿り着けずに処分することになったり。

エロゲの箱はかさばるから、引っ越しのときとかに処分することになる。そりゃ残していてもいいが、私の場合優先されるのは本だからデカい箱は処分せざるを得ない。

エロさえいれていれば結構むちゃくちゃなことをやっても許されていた時代…今は絵が綺麗で実績のあるライターでないと売るのは厳しくなった。1個1万とかするもんね。

いろいろあったよね…執拗にアナルセックスばかりするキャラとか、一人を選んだら他のヒロインが全部バッドエンドになるとか、知らない間に三角関係になってたり、医者になって診察してたと思ったらセックスしてたり、姉妹どんぶりかと思ったら一人は男だったり、ドジっ子かと思ったらトラウマが原因でミスしたり転びやすくなってしまったキャラがいたり、美少女かと思ったらなんかグロいものだったり、田中ロミオにドハマリしたり…書いてたらエロゲやりたくなってきた。プレイしたらなんか書きます、たぶん。エロゲは青春の1ページです、まじで。

美しい映像や絵を見て感心したり嬉しい気持ちになっったりしてそれだけで日々が終わればいいのに

暗い日記。

 

 

私だったらこうされると嬉しいなということを他人に過剰にやってしまって、自分で自分の首を絞めている(比喩のほう)。

私の生き方が正しいのかわからない(もちろん正しい生き方などない、定義されていない)。

そもそもこうやって考えすぎても良いことはない。みんなもっと違うように生きている気がする。私が羨ましいと思うのはもっと自分の身体とよくつながっていて、そして社会的なことをきちんとクリアしていて(それは結婚出産仕事など)、自分の親戚や家族と仲の良い人。

もちろん誰だって弱みを見せていないだけで、問題もあると思う。でも自分の欠点と相手の欠点を比べるのがやめられない。自分は全然持っていない気がする。私の周りの人が優しくしてくれても、それは私の持っているものじゃない。

嫌なことばかり思い出す。悲しくて泣きたくなる。

世間的に正しいことに縛られるのはもうやめるべきだと思っても、どうしても人と話したい。仲良くしておきたい。会いたい。一緒に話したりご飯を食べたり買い物をしたりしたい。誰かとつながっていたい。選ばれたい。本当は誰にも選ばれなくてもいいって思いたい。本当は1人くらいいればいいと思いたい。手に余るくらいの幸せを欲しがるのは間違っている。溢れるほど欲しくはない。感謝されたい。私はどうして誰にも何もしてあげられないのか。ポイント制にしてほしい。安心するから。目に見えるから。

 

誰かの親になってそのことだけ考えたい。自分の子どもの健やかな成長を願い、子育てして。もしくは働いて誰かを支えることができたら。いつも守ってもらってばかりで何もない。頑張りもポイントにしてほしい。うつとか躁とかも目に見えるようにしてほしい。

自分が良い親になれる気がしない。結局家族仲の良い人はたくさん子どもをなし、私はそうはなれない。そうなってはいけない。連鎖が起きる。いつか自分の子どもを羨ましくなってしまう日がきっとくる。朝目覚めたときに後悔するのは自分だけでいい。ああ、子どもをなしていれば。私一人がそう思えば良い。

考えすぎなのだと思う、いつもいつも。もっとシンプルな事柄がたくさんある。でもシンプルすぎるのもこわい。勢いもない。情熱もない。美しい映像や絵を見て、ふむふむと感心したり嬉しい気持ちになってそれだけで日々が終わればいいのに。

本当は褒めてほしい。病気だから子どもをつくらなくて偉いね、いろんなことを諦めて偉いね、生きていて偉いねと。連鎖を起こさない立派な選択をしたのだねと褒めてほしい。友人の子どもは可愛い。だって奇跡みたいなものだもん。好きな友達の半分が入ってるんだもん。でも自分の子は半分が自分で、そんなの許せるわけない。まともなわけない。

子どものいる友人に何を話せばいいかわからない。育児以外のことを話しすぎたら恥ずかしい気がする。まだそんなこと話してるの?って思われたらどうしよう。私は映画とか本のことしかわからない。働いてる時間も長くない。ほぼ家事。語れることが何もない。自分の浅さに驚く。クリムトの描く絵の色彩は美しい。そういったことは生活に根付かず、どうでもいいと言われてしまったら私の全部が崩れる気がする。だから話せない。うまく話せない。だって人生を着実にすすめている人にクリムトや映画が必要なの?必要な人もいるけど、私は着実にすすめていないから所詮その代替でしょって思われたらどうしよう。でも私は音楽や絵や映画を美しいと思う。素晴らしいと思う。文章に勇気づけられる。

寂しい。苦しい。誰と何を話したらいいのかわからない。話したいのかもわからない。自分の中で思考が二転三転する。苦しい。

どこまでもどこまでも他人が自分ではないという感覚が希薄

春になって、いや、とっくにもう夏が近づいてきているというか、なりかけというか片足を突っ込んでいるのだが、ようやく調子の良い日も増えてきた。

冬はだめ。季節としての冬は美しいし、もこもこのニットや黒タイツを身につけられるのは大好きだけど、やる気がしない。頭が痛い。常に気分は落ちている。

ところが春は不安定ながらも気持ちの上向く日も多いし、薄着をしてみたり窓を開けてみたり、ちょっと散歩してみたりと少し心や体の窓が開放される気がする。夏はハイになりすぎるから気をつけなければいけないんだけど。

病気のつらいところはセーブをしなければいけないところだと思う。誰だって多少はしているだろう、食欲物欲性欲などなどのセーブ(性欲は薬でかなり無くなっているのだが…)。

自分が楽しいときも「あ、ハイになっちゃう、だめだめ」と薬を飲んだり、「楽しい!楽しい~~!いや、あれ、これ…もしかしてハイ?病気の症状かも?」と自分の楽しさを疑わなければならない(~でなければならない、とか~すべきという考え方も顕著になってくる)。

 

この間、好きなブログを書いている人にメールしてみた。あちらも嬉しいと言ってくれて、私も嬉しかった。私が男だったら会ったりカラオケとかに行けるのかなーと思った。

別にその人を疑っているとかではなくて、自分が女だというのが嫌?というか。自覚させられるのが嫌なのかもしれない。だってカラオケに行ったって、自分の女としての声を聞いて、あの大好きな男性ボーカルを歌えないんだとかぐちゃぐちゃ思っちゃいそう。いや、そういうことではなくて、きっと男の人だと錯覚を起こしてしまうから。簡単につながれるような錯覚を。つまり肉体とかで。決してそうなりたいとかなりたくないとかではなく、自分がその人と親しくなりたいと思ったときに安易にそういったことを選択しそうでこわいというか。自分と他人の境界線が曖昧でこわい。どこまでもどこまでも他人が自分ではないという感覚が希薄なのだ。

だからネット上で知り合った人はなるべく複数人で会うとか、そういったことを心がければ良いのかな、たぶん。

いや、相手方は全く会うことに言及していないのにぐちゃぐちゃ勝手に書いて申し訳ないのだけど。以前からの考えを更に新たにしたのだった。

安易につながれることに甘えてはいけない。他人は他人として尊重したい。そして切ない文章を書いて、同じ音楽を好きでいられる人に敬意を。不快だったら消しますので。